が、私はかの、

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青丹よし 寧楽の都はさく花のにほふがごとく今さかりなり
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 寧楽朝を桜花になぞらえて謳歌した万葉歌を日頃から愛誦している。
 桜花の美は百花を圧して、ふじやま[#「ふじやま」に傍点]や歌麿北斎と共に世界的となり、ワシントンの空にさえ咲き匂う時代となった。
 願わくば花の下にて我死なんとさえうたった歌人もあるのに、我さくらの国の女流俳人はこの花をいかに観じ、いかにたたえているであろうか?
 名高い秋色桜の事をおもいうかべつつ、私は興味をもって、古今の俳書から少しばかり花の句をあさって見た。

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山桜散るや小川の水車  智月
かち渡る流早しや山桜  かな女
あふ坂や花の梢の車道  智月
これを見てあれへはゆかん山桜  りん女
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 数年前の春だった。寂光院へいそぐ道すがら、次第に山深くいにしえの大原御幸道にわけ入った時、ふと傍らの渓流に一本の山桜がうす紅の葉をかざして咲き傾いているのに気がついた。そのほとりには古びた水車が、のどかな水音をはじき返し花の木かげには、刈り束ねた柴が、落花をあびて置き去られたまま、あたりに杣の影もなく、木深いところから小禽のねがきこえてくるばかりだった。
 智月の「山桜ちるや」の句もかかるもの静かな山川の景色らしく、句風もまことに美しい。
 逢坂の句の方は、ゆくてに満開の山桜を点出しその梢のあたりに車道が見えているというので、しいて車を見せなくともよいが、ひなびた牛車か柴つむ車を前景として描き出す山路の花の絵には、花をかざして、ひねもす遊びくらした時代ののどかさがある。此二句、こせこせした現代離れがしておおまかさの中に、却って美しさを見出すのである。
 情緒主観の句が殆ど大部分をしめている、元禄時代の句としてはかなりしっかりした叙景句として価値をみとめる。かな女さんの、山川を徒歩で渉るいう句も才気が見え、さすがに大正女流中の最古参として手馴れたものである。この古今の対比はまず持というところであろう。もっとも之は、古今の価値を断定する蘊蓄をもたない、私一個の感じを述べるに過ぎない。
 日田のりん女の句はこの花を見てから、あの谷間に見えている花の辺りにも行って見よう、という即興の句、其当時としては佳句の方で、蕪村の玉藻集にものせられたの
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