も一の系統の截然として存するを見る。東を青州といへるは五行によれるものにて、東方は木徳、色は青なるによれるなるべく、西を梁州といへるは、十二宮にて正西に當れる大梁、[#この読点不適当][#ここから割り注]これ即太白(金星)なり [#割り注終わり]は一に梁星と呼ばるゝより、之に因みて梁州の名を付せしものゝ如く、南方を揚州といふは、思ふに陽揚相通ぜしめしものなるべく、北を冀州とせるは、冀字北を含むによりて之を採りしものなるべし。作者がその馬脚を示さゞらんと欲して、いかに苦心せるかを察すべき也。
 次に禹貢の記載は北方なる冀州より始る。これ北斗が帝王の座と考へらるゝ思想に基けるものにして、從つて堯舜禹三君は共にこの冀州に都せることゝ傳へらる。
 なほ九山、九澤、九州等と九を撰べるは、易の太陽の數に因めるものにして禹貢には易の思想をも含めるを見る。又九州の土色をいふに、白赤黄青黒等を以てしたるは、五行の數によれるを推すべく、禹に玄圭を賜へりとあるは、禹が治めたる水に縁ある黒色に基けるものならん。この他四岳の如きも實は五岳の思想と同一なるものにて、中央の王座たる一つを省きたるものなるべく、漢民族の山岳崇拜の思想と五行思想の抱合ならんか。
 以上の他、易及び陰陽思想の影響と見らるゝものは少からず。例へば八元八※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の如きは易の八卦の思想にして、舜に二女を賜ふとあるは、『史記』卷一、五帝本紀には九男二女とありて女には偶數(陰)の最小なるを撰び、男には奇數(陽)の最大なるをあげしもの也。堯が在位七十歳、舜は五十歳といへる如きも陽數を尚ぶ思想より來れるものにして、之を實數として考ふるは蓋し妥當に非ざるべし。又かの夏が田五十歩を民に貸し貢法によりて租を取り、殷が田七十歩を民に與へて助法を行ひしといへるも亦、同一思想に胚胎するものと見るべし。
 かく見來れば禹貢も亦、歴史的地理的事實を傳ふるものとは考ふ可らざる也。禹貢は支那全部を井田に分ちたるものにして、易の思想によりて太陽の數九を以てしたる也。
 堯舜禹の史實として傳へらるゝ記事が創作物なりとせば、そは何れの時代に於いて製作せられしか。換言せば易、陰陽、五行、十二宮、二十八宿等の思想智識はいづれの時代に現はれしか。これ當面の問題也。
 禹の九州の事は『書經』の中にも見え、齊の鄒衍之をいひ、
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