彼が荒々しく硝子戸《ガラスど》を明けると、仄暗い茶の間の鏡の前に、彼女が身動《みじろ》きもしないで坐つてゐた。彼は黙つてその傍を通り抜け書斎の真中へ仰向に身を投げだした。彼はぢつと眼を見開いた。しんとした中に眼に見えぬ力が執拗《しつえう》に彼を圧して来る。彼は身を刺すやうな憎悪を感じた。ビ・リ・リ・リ・リと叫びながら遠野のくれた喙《くちばし》の紅い小鳥が籠の中で跳上る。彼は立つて水を換へてやり、それからつか/\と茶の間へ這入つていつた。と涙が彼女の硬ばつた頬を伝ひ白い手の甲の上に落ちた………
四
同じ日の夜、道助は少々退屈を意識しながら彼女の前に坐つてゐた。彼女は用心深く彼の視線を外《そら》しつゝ何気ない世間話の中へ彼女の従姉《いとこ》の不幸な結婚の話を細々《こま/\》と織り込んでいつた。道助は「これは初めて聞いた」と云ふ風に時々彼女の方へ点頭《うなづ》いて見せながら、ぼんやりとそれを聞いてゐた。で最後に彼女が
「それであの人達が苦んでゐるのは、結局今更どうにもしやうのない秘密の世界をお互して作りあげてしまつた所為《せゐ》だと思ふのよ、」と云つて彼の眼を盗み見た時にも、道助は矢張り先刻からの退屈の惰力で「うん/\」とか何とか云つたきりだつた。夫《それ》を見ると彼女は硬い笑ひを浮べ乍《なが》ら
「つまり心の何処《どこ》かにちよつと忍ばせて置いた小つちやなことから大きな秘密が生れることにもなるのだわね。」と云つて今度は真正面《まとも》に彼を凝視した。
「あゝこれは遂々《とう/\》そんなところまで引張つて来たのだ!」さう考へながら道助は故意《わざ》と揶揄《からか》ふ様に「そしてその小つちやなことと云ふのは女の胸の方に忍びこんでゐることが多いんだね、第一女は隠すことを知つてゐるからな。」さう云つて笑つた。
「いゝえ、いゝえ、」と彼女はカブリを振りながら云つた。それから急に湧き上つて来る興奮に震へながら、
「あなたは妾に信頼して下さらない。」と細い声で云つてきつと口を緘《つぐ》んだ。道助は少し険《けは》しい眼つきをした。
「あなたは妾に見せられないものがあるのでせう、いゝえ、あの手箪笥の引き出しには何が蔵《しま》つてあるか、妾にはよくわかつてゐます。」
「秘密の城を築くと云ふのはおまへのことだ。」と道助は故意《わざ》と冷笑するやうに云つた。
「妾はあなたに見せられないやうな鍵は持つて居りません。」と彼女が執拗に答へた。彼は強ひて自分の気持ちを抑へながら云つた。
「昔、ある天才が自分の書いたものを真珠を鏤《ちりば》めた箱に入れて密《そ》つと藏つておいたと云ふ話がある、そんな気持ちはお前にはわかるまい。」
「それはお噺《はなし》として承れば美しいことかも知れませんわね。」さう云つて彼女は静かに微笑んだ。
それを聞くと道助は遅緩《もどかし》さに堪へられなくなつて、「馬鹿、お前にはわからない。」と叫んで横を向いてしまつた。彼女はちらと追窮するやうな視線をそれに向け、そのまゝ俯向《うつむ》いて編物の針を痙攣的《けいれんてき》に動かし初めた……
然し暫《しばら》くさうして口もきかないでゐると、道助は何かしら淋しくなつて来た。で彼は遂々《とう/\》銭入れの中から白く光る小つちやな鍵をとり出して彼女の膝の上に投げやつた。
「おまへには恰度《ちやうど》好い玩具《おもちや》だ!」
「えゝえゝ大人しく遊びますわ。」急にさう気軽に云つて、彼女はそれを帯の間へ蔵《しま》ひこんだ。道助は忌々《いま/\》しさうにそれを見た。その手箪笥の引出しには彼の独身時代を淡く色つける四五百通の手紙と彼が今日昼読み返した旧い原稿とが這入つてゐるのだつた。
五
二三日道助は創作に没頭した。それが殆《ほとん》ど半ば程進んだ頃のある曇つた日の午後。
彼はもう何枚目かの原稿紙を破り棄て、低く垂れた空へ疲れた眼を見据ゑてゐた。彼女は彼女でその傍に少し膝を崩して坐り、当のない憂欝に引き込まれながら、先刻道助が癇癪《かんしやく》を起して物置きの中へ抛《はふ》り込んだ小鳥の鳴き声を追つてゐた。まるで彼等の生活は、その時硝子瓶の中へ閉ぢこめられたやうなものだつた。音、光、色彩、運動、そんなものが凡《すべ》て自由性を失つてしまひ、たゞ白けた得体の知れぬ現実がぐんぐんと押し迫つてくる……
道助は額の汗を拭いて立ち上つた。それを見ると彼女も立ち上つた。道助は静かに玄関へ出た。すると彼女も密《そ》つとついて来た。彼は振り返つて彼女の眼を見た。その鞏膜《きようまく》が変に光つてゐる。
「おい、俺は少し散歩するよ。」と彼が小声で云つた。
「妾も参ります。」と彼女も小声で答へた。
「お天気の所為《せゐ》かな。」と道助は歩きながら考へた。
暫《しばら》くゆくと彼は跫音《
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