の上でその豊満な身体を弛《ゆる》やかに揺《ゆ》すり初めた。
遠野は彼女のするがまゝになりながら、立て続けに洋盃を乾した、彼の眸《ひとみ》や唇に、時々ちら/\と何かが燃え上る、それを隠さうとするかのやうに、彼は細長い指を伸べて食卓の端を叩きながら低く唱ひ始めた……
その様子を見ると道助は少し堪へられなくなつて密《そ》つと椅子を離れた。そして先刻彼女が抛《はふ》り出した花束を拾ひ上げて、殆ど無意識にその花片《はなびら》を一つ/\むしり初めた。
「おいとみ子、一つダンスをやらう。」さう云つて遠野が不意に彼女の首筋を抱へて飛び上つた。
「ほら始まつた。」と云ひながらとみ子はちらと道助の方を見た。
「あゝ君は一つ囃子方《はやしかた》になり給へ。」遠野が道助に云つた。道助は漠然と微笑《ほゝゑ》みながらバネの弛《ゆる》んだ自働人形のやうに部屋の中を歩き廻つた。
恰度《ちやうど》部屋の真中へ天窓から強烈な光線が落ちてゐる。その中へ遠野ととみ子とは白い両手を握り合つてふら/\と立ち上つた。
「ほんとに踊る気かい、君達は。」と道助が訊ねた。それを聞くととみ子が崩れるやうに笑つた。
「踊《をどつ》たつて好いぢやないか。」と遠野も笑ひながら答へた。
「まるで君は日本にゐるやうぢやない。」と道助が云つた。
「そんなことはどうでも好いさ。」さう云つて遠野は強くとみ子を抱きかゝへた。
その時雲がよぎると見えて部屋の中がちよつと暗くなつた。それと共に、道助は何かしら白けた気持ちが自分を犯して来るのを感じた。
「おい、君は何を考へてゐるのだ。」と遠野が叫んだ。
「囃子方も看客も僕はご免さ。」と道助は吐き出すやうに云つた。
「ぢや貴方《あなた》踊らない?」さう云つてとみ子が彼の方へ大きく両手を拡げた。
それを見ると道助の気持ちは一層|拘泥《こうでい》し初めた。何か斯《か》う際立つて明るい世界の前に急に頑丈な扉が聳《そび》え立ち、その外に自分独り取り残されたと云ふやうな……あゝ道助は妻の顔を思ひ浮べてゐたのだつた!
「僕はもう失敬するよ。」
「どうしたんだ、急にまた、」と遠野が訊ねた。
「僕はもう享楽出来ないんだ。」と道助は明らさまに答へた。「意気地が無いのね。」と云ひつつとみ子が彼の背中をどんと叩いて遠野と顔を見合せた……
三
独身――制作――とみ子、その三つのものを結び合せて遠野のことを考へると、道助は自分が何かしら惨《みじ》めなものに思はれた。彼は或る時の妻の瞳を思ひ出し、また彼女の髪の震へを感じた。然し彼の心はもうそれらに対してまるで路傍の人のやうな冷静さに裏づけられてゐた。
彼はぢつとしてゐられない気持ちになつた。である日、手箪笥《てだんす》の底から彼が結婚前に書きかけてゐた自叙伝的な創作の原稿をとり出した。
「おい、これから少し仕事をやらなくちやならないんだ。」さう妻に云つて彼はその原稿を一枚々々読み返した。
「なあに、小説?」と云ひつゝ彼女が馴々《なれ/\》しくそれを覗《のぞ》き込んだ。
「見ちやいけない。」と彼は叫んだ。
「恐い顔。」と云ひながら彼女が眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
「ちよつとあつちへ行つてゐてくれ。」と彼は押しつけるやうに云つた。彼女は少し蒼い顔をして隣室へ立つていつた。彼はそれを追ふやうにして間の唐紙に手をかけた。彼女がぢつと反抗的な視線を彼に投げる。彼は強《し》ひて笑顔を作りながらぴたりと唐紙を閉めた。そしても一度原稿紙を取り上げた。
彼の頭は暫くその上と隣室へと等分に働きかける、そして結局焦躁のために混乱してしまふ。
「こんな洞察のない、こんな上滑りのした空想ぢや駄目だ」とさう呟《つぶや》きながら、彼がそれをまた手箪笥の引き出しへ投げ込んで鍵を下ろした時、彼は裏口が明いて彼女の出てゆく気配を知つた。彼は巻煙草の吸口をぎゆつと噛み占めた。
あゝ今、彼の眼の先へ息の詰まる程の鮮さを持つた空想の世界が、何か魔術にでもかゝつたかのやうにすつと現れて来たら、彼はどんなに幸福だつたらう! 然《しか》し、彼の前には、実のところ空漠として煙が巻上るのみだつた。
道助は溜息をつきながら立ち上つた。そして何か遠くにあるものを求めるやうな気持で静に裏口を出た。
三四間ゆくと彼は急に忙々《せか/\》と歩き出した。「何処へいつたのだ、彼女は。」さう呟《つぶや》きながら。
「好いお天気でございます。」と声をかけつゝ牛乳屋の主婦《おかみ》さんが頭を下げた。道助はちよつと会釈《ゑしやく》をしてゆき過ぎた、「あの人の鼻はどうしてあんなに大きいのだ!」……
いくら行つても妻の姿は見えなかつた、そして路上を這つていく自分の長い影法師が一層彼の気持ちを苛《いら》だたしめた。彼はすぐに引き返した。
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