先刻道助が寄つた珈琲店のある方へ歩きだした。歩きながら彼女は探るやうな眼つきをして
「誰に訊いて来たの。」と云つた。
「誰に聞くものか。疑ぐり深いやつだな。」と道助が答へた。それを聞くと彼女は横を向いてちよつと狡《ず》るい笑ひを浮べた。

     十

「今のは君の家かい。」と歩きながら道助が尋ねた。
「まあ妾にあんな家があると思つて。」
「あつたつて好いぢやないか。」
「ぢやあなた拵《こし》らへて下さい。お礼を云ふわ。」
「遠野に叱られるよ。そんなことをしたら。」
「奥さんにも叱られますわね。」
「ありがたう。今日は好いお天気だね。」
「ほんとに好いお天気ですこと。」
「時に、何処かへお伴をしようか。」
「お愛想が好いのね。」
「ほんとさ、奢《おご》るよ。」
「今日は駄目、三時に約束があるのよ。」
「あゝ案の通りだ。」
「ほんとなのよ。」
「それはほんとうでせうさ。」
「可笑《をか》しな人。」
「もうちつとパラソルをそちらへやつて貰ひませう。歩き難《にく》くつてしやうがない。」
「怒つたのね。そんなに速く歩かなくても好いわ。」
「実は僕も余りゆつくり出来ないんだ。」
「さうでせうとも。でお約束はどちら。」
「なあに、少し許り用をたして帰るんだ。」
「どんなご用だか。それはさうと貴方これから一時間ばかり妾の家へ寄つていらつしやらない。」
「折角だが止さうよ。お約束の邪魔をしちやいけないから。」
「ご挨拶ね。然し串談《じようだん》は止してほんとに寄つていらつしやいよ。ね好いんでせう。」
「暑いね。そんなに寄つて来ちや。」
「あら覚えていらつしやい。」
「おい/\、急にまた忙《いそ》ぎ出したね。」
「ご免なさい。妾も少し買物をしていかなくちやならないから。」
「いゝよ、わかつてゐるよ。で君の家は何処だつたつけ。」
「いえ、もうお招《よ》び致すやうなところではございません。」
「ほんとうに随いてゆくよこれから。好いかい。」
「どうぞご勝手になさいまし。」
「これは大変なことになつた。君のところはたしかB街だつたと思ふがね。」
「おや、知つてるのね。」
「知つてるさ。B街のとみ子。」
「B街のとみ子。然しそれぢや何だか雲を掴《つか》むやうね。」
「だから訊《き》いてゐるのさ。」
「ぢやきつといらつしやるのね。」
「嘘は申しません。」
「ではすぐこれから往きませう。」
「おい/\昼間だよ、手なんか引つ張りつこなしにしようよ。」
「なんて見得坊なんだらう、さあW行きが来たら乗りますよ。」
「然し君、もう二時過ぎだよ。約束の方は好いのかい。」
「好いのよ、これから帰つたら待つてゐるだらう。」
「おや、何んの為に僕を引つ張つてゆくのだ。」
「構はないのよ、遠野さんだから。」
「遠野、遠野かい、その約束と云ふのは。」
「どうしたの、馬鹿に驚くのね。」
「驚きやしないさ。然し……」
「何が然しなの。」
「今日は兎も角もよすよ。どうしても用の都合が悪いから。」
「あんなこと、ほらW行きが来たぢやありませんか。ではどうしても止すのね。」
「あゝ折角だけれど。」
「では沢山《たくさん》ご用たしをなさいまし。」
「さやうなら。」
「意久地なし!」

     十一

 翌朝道助は永く床にゐた。頭の中には夢の糟《かす》が一杯に詰まつてゐるやうな気がする。とみ子、妻それから今かゝつてる創作のプロット、そんなものがちぎれ/\に眼の前を駛《はし》る。そしてその間にウト/\と鈍い眠りを続ける……ふと彼は急に大きな明るいものに衝突《ぶつ》かつたやうな気がして眼を見開いた。玄関からこんな対話が響いて来る。
「奥さん、描きに来たんですよ。」
「あらほんとにいらつしたの。厭ですわね。」
「好いぢやありませんか、半時間|許《ばか》り坐つて下さいね。」
「ちよつと。里村を起して来ますから。」
「おや、まだ眠つてゐるのですか。」
「えゝ何ですか、昨日から大変気難かしくなりましてね。」
「どうしたのです、身体でもわるいんですか。」
「いゝえ、貴方に戴きました小鳥ね、あれが少し弱つてゐるのを気に障《さ》へましたのですか昨日午後ふいと外出致しまして、夕方|晩《おそ》くお酒をいたゞいて帰つて参りましたがそれきり碌《ろく》に口もきかないで寝《やす》んでるのですよ。」
 何となく苦笑して聞いてゐた道助は少し不安を感じ初めた。遠野が何か云ひながら上つて来る気配《けはひ》がする。道助は蒲団を冠つた。
「起きろよ。」さう云つて遠野は道助の枕許《まくらもと》に立つた。その馴々しい態度に不快を覚えて道助は責めるやうな視線を妻に投げた。彼女は感じない振りをして微笑んだ。
「奥さんを描きに来たんだ、今頃の光線の感じがいつとう好いからな。」と遠野が構はずに云つた。
「ありがたう。描いてやつて呉れ給へ。」
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