て遠野のことを考へると、道助は自分が何かしら惨《みじ》めなものに思はれた。彼は或る時の妻の瞳を思ひ出し、また彼女の髪の震へを感じた。然し彼の心はもうそれらに対してまるで路傍の人のやうな冷静さに裏づけられてゐた。
 彼はぢつとしてゐられない気持ちになつた。である日、手箪笥《てだんす》の底から彼が結婚前に書きかけてゐた自叙伝的な創作の原稿をとり出した。
「おい、これから少し仕事をやらなくちやならないんだ。」さう妻に云つて彼はその原稿を一枚々々読み返した。
「なあに、小説?」と云ひつゝ彼女が馴々《なれ/\》しくそれを覗《のぞ》き込んだ。
「見ちやいけない。」と彼は叫んだ。
「恐い顔。」と云ひながら彼女が眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
「ちよつとあつちへ行つてゐてくれ。」と彼は押しつけるやうに云つた。彼女は少し蒼い顔をして隣室へ立つていつた。彼はそれを追ふやうにして間の唐紙に手をかけた。彼女がぢつと反抗的な視線を彼に投げる。彼は強《し》ひて笑顔を作りながらぴたりと唐紙を閉めた。そしても一度原稿紙を取り上げた。
 彼の頭は暫くその上と隣室へと等分に働きかける、そして結局焦躁のために混乱してしまふ。
「こんな洞察のない、こんな上滑りのした空想ぢや駄目だ」とさう呟《つぶや》きながら、彼がそれをまた手箪笥の引き出しへ投げ込んで鍵を下ろした時、彼は裏口が明いて彼女の出てゆく気配を知つた。彼は巻煙草の吸口をぎゆつと噛み占めた。
 あゝ今、彼の眼の先へ息の詰まる程の鮮さを持つた空想の世界が、何か魔術にでもかゝつたかのやうにすつと現れて来たら、彼はどんなに幸福だつたらう! 然《しか》し、彼の前には、実のところ空漠として煙が巻上るのみだつた。
 道助は溜息をつきながら立ち上つた。そして何か遠くにあるものを求めるやうな気持で静に裏口を出た。
 三四間ゆくと彼は急に忙々《せか/\》と歩き出した。「何処へいつたのだ、彼女は。」さう呟《つぶや》きながら。
「好いお天気でございます。」と声をかけつゝ牛乳屋の主婦《おかみ》さんが頭を下げた。道助はちよつと会釈《ゑしやく》をしてゆき過ぎた、「あの人の鼻はどうしてあんなに大きいのだ!」……
 いくら行つても妻の姿は見えなかつた、そして路上を這つていく自分の長い影法師が一層彼の気持ちを苛《いら》だたしめた。彼はすぐに引き返した。

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