炉台の上の蓄音器の傍に赤く塗つた鳥籠が置かれ、その中で目白が盛んに囀《さへづ》つてゐる。彼はちよつと家の小鳥と妻の顔を思ひ出した。然しそれもすぐ散漫な気持の中に溶け込んでしまつた。
「今日は出来るだけ幸福でなくちや。」とそんなことを考へながら、彼は熱い珈琲を啜《すゝ》つた。それから新聞をとり上げて一とわたり経済欄や政治欄に眼を通したが別に愉快なことも起つてゐないので今度は表の方へ眼をやつた。入口の扉が両方に明け放たれ、その間に葭簀《よしず》が吊下り、その向うに明るい往来が見えるのである。
 ふとそこを青いパラソルをさした太り肉《じし》の丈の高い女が行き過ぎる。傘の青みが顔に落ちてよくはわからないが、色の白い眼の大きな女だと道助は思つた。と同じ瞬間に、その女のショウルと帯の色合ひと横顔の輪郭とがハツキリと彼の記憶に再燃した。それはモデルのとみ子に違ひなかつたのだ。彼は忙《いそ》いで払を済ませて外へ出た。そして六七間先にゆく彼女の後を追つた。
 このまゝ後をつけて行つて見ようかそれとも追ひついて声をかけようか、そんなことを道助が思ひ迷つてゐる間に彼女は横町へ外《そ》れてしまつた。彼が小走りにその曲り角へ来た時、彼女は恰度《ちやうど》三四間向うの左手の格子戸の嵌《はま》つた家へ這入《はい》るところだつた、這入りながら彼女はふいと背後を振り返つた。道助は少し狼狽《うろた》へた。彼の姿は厭でも彼女の視線の中に入らねばならなかつたのだ。道助は仕方なく微笑んだ。それを認めたのか認めないのか彼女は無表情な顔をついと背向《そむ》けたまゝ格子戸の中へ消えてしまつた。
 道助にはその家の表札を覗きにゆく丈けの元気が無かつた。で彼はたゞ遠くから二階の障子を見凝《みつ》めてこゝはB街ではない、従つてこれは、遠野が嘘をついたのでない限り彼女の家ではないとそんなことを考へながら暫く其処に立つてゐたのだつた。
 すると驚いたことには、すぐに又その格子戸が開いて先刻のまゝのとみ子が、笑ひながら彼の方へ近寄つて来たのである。道助は不意を打たれて少し赧《あか》くなつた。
「お待ち遠さまね。」と彼女が冷かすやうに云つた。
「何も君を待つてやしないさ。」
「嘘をおつきなさい。」
「嘘ぢやない。ちよつと此の辺を散歩してたんだ。」
「何んでも好いから妾に随《つ》いていらつしやいよ。」さう云つて彼女は先に立つて、
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