「あゝこれは大変なところを掴《つか》まれたものだ。」遠野が笑ひながらさう云つて道助の顔を見た。道助は少し敵意を感じてぢつと眼を伏せた。
「実はあれを描いた時、僕は片一方で裸体画の制作にかゝつてゐたのだ。」と遠野がすぐに説明した。
「それが馬鹿に好い調子が出てね自分でも大変愉快だつたのだ、ところが君のあれにかゝると、怒るかも知れないが妙に気持ちが違ふんだ。何か斯《か》う全く相容れぬ力に犯されてるやうでね。つまりそんな意識が働いて多少誇張したことになつたかも知れないんだ。」
七
その制作と云ふのは、この間遠野が画室で逢つた例のとみ子をモデルにしたものに違ひないと道助はすぐに思つた。すると奇体にも彼の眼の前へそのとみ子の影像が不可思議な鮮かさをもつて現はれてきた。
――彼女の指先の紅らみの中に浮き出てゐた細《ほつそ》りとした指半月《つめのね》、豊な彼女の唇を縁づける擽《くすぐ》るやうな繊細な彎曲、房々と垂れた彼女の髪の微《かすか》な動揺と光沢、彼女の首筋から両肩へかけての皮膚の純白さと膨《ふく》らみ、彼女の笑凹《ゑくぼ》、彼女の歯列び、とり別《わ》けて、その魂の火が燈《とも》つてゐるやうな大きな瞳――
道助は立ち上つて縁側の籐椅子《とういす》に腰をおろした。
「奥さんのも一枚描かして貰ひませうね。」と遠野が云つた。
「えゝどうぞ、でもそんな風に誇張をなすつちや厭ですわね。」と彼女が答へた。
「この表情の乏しい女の何処に興味があるのだらう。」と道助は傍で考へた。
「大丈夫ですよ。それに奥さんのを描いとくと、いつかそれが里村君の先刻の結婚論に対する立派な反証になる時が来ると思ふんだ。ねえ君。」
「大変な曰《いは》くがつきますわね。でもそんなら妾描いて頂くわ、」
「反証つて?」と道助が訊《き》いた。
「つまりほら、家のお祖父《ぢい》さんはあんなに若かつたのだとか家のお祖母《ばあ》さんはあんなに美しかつたのだと話される時が来ると云ふんだ。」
「つまらないことを云つてゐる。然《しか》しそれなら君は何故結婚しないんだ。君の云ふやうだと夙《とつ》くに結婚してゐて好い筈ぢやないか。」
「時機と相手が出来次第だよ、僕は結婚を否定しないんだからな。」と遠野は皮肉な微笑を浮べて答へた。
「君、あの何とか云つたモデルはまだやつて来るのか?」と道助がそれに反撥するやうに云つた。
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