あしおと》がちつとも聞えないのに気がついた。で彼は愕然《がくぜん》として背後《うしろ》へ振り向いた。そこに彼女がほんの一尺計り離れて彼に憑《つ》いてるやうに歩いてゐる。
「あゝ俺は少し頭を使ひ過ぎる。」さう道助は思つた、で彼は高声にお饒舌《しやべり》を初めた。
「おい俺は豚を二三匹飼はうと思ふよ。」と彼は妻に云つた。
「豚、この街の真中で。」と彼女が闇《くら》い顔をして反問した。
「あゝ、よく光る太陽の下で、豚と一緒に駈け廻り、ふざけ合ひ、寝つ転がり、臀《しり》を叩き、ああおまへ豚の皮膚の色を知つてゐるかい。」と道助は調子に乗つて云つた。
「まあ厭!」
ふいと道助は、真白い太つた女の両腕が、彼の眼の前に大きく拡げられてゐる幻を見た。「とみ子! たしかさう云つたな、あのモデル。」と彼は思はず呟《つぶや》いた。
「えゝ」と云ひながら、彼女が探るやうに顔を寄せた。その引き締《しま》つた頬を見ると、道助は急いで眼を背向《そむ》けて少し速足に歩きだした。
彼は歩きながら今度は、いつか懇意な医者から聞いたある若い男の話を思ひ浮べた。その男は小さい時から音楽に対して殆ど狂的な興味を持つてゐた。それが或る日その医者を訪ねて来て、自分は音楽研究のために二三年|独逸《ドイツ》にゆきたいと思ふが少し調子が変だから精神鑑定をやつてくれと云つた。で医者が容態を尋《たづ》ねると、自分には今ものの形と音との区別がハツキリとつかないと云ふのである。例へば一つの茶碗を見ると、すぐに彼の耳に瀬戸物の打ち合ふ音が聞えて来て、茶碗そのものの形は、何か斯う空に懸つた朦朧《もうろう》とした曲線とでも云ふやうに音の裏に浮き上つてしまふと云ふのであつた……
道助がそんなことを考へ続けてゐると彼女が強く手を引張つた。
「その顔色はどうしたんだ。」と彼が苛々《いら/\》と尋ねた。
「あなたの顔も蒼白いのよ。」と彼女が云つた。
雨が落ち初める……彼等は立ち止つた。
「おい、」とその時晴やかな声が響いた。道助は急に明るい光線が頭の上に落ちて来たやうに思つた。そこに遠野が画布を抱へて、大股に彼等の方へ近づいて来るのだつた。
六
食卓の上に青いシェードをかけた電気のスタンドが燈《とも》され、その明るい光線の中に、遠野と道助とが少し興奮して坐り、シェードの蔭には彼女が澄んだ瞳をぢつと彼等の方へ見開いてゐ
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