ていた。それから彼らは闇《くら》い道をてんでに別なことを考えつつ引き返えした。途中で雨が降ってきた。弟は車を道ばたに置いて十間ほど後から来る彼女のところへ戻っていった。
「遅れるから忙《いそ》ごう。」
そう言って彼は彼女の手をとった。彼女は眼にいっぱい涙を溜めていた。それがきゅうに唇を震わせて彼を見た。
「車にお乗り。」そして彼は胸を轟《とどろ》かしながら彼女の肩に手をかけた。彼女はもう一度鋭く彼を見詰め、それから不意に彼の胸を押し除《の》けて駈けだした。彼は硬くなって彼女の後姿を見守った、そして車のところへ戻って、提灯《ちょうちん》に火を点《つ》け、寂《さび》しい車輪の音をひびかせながら彼女のあとを家に帰った。
五
父が亡くなって弟があとをやっていくようになった。学校を途中で廃《よ》して帰ってきた兄は、家の庭に研究所を建ててほとんど終日それに籠《こも》っていた。兄は歌津子と結婚した。そして幸福であった。
ある日兄は少し興奮して弟を研究所へ引張っていった。トリキナ病の血清注射の研究に使われる鼠や鶏の肝臓で何カ月も飼養されてるイモリがガサガサと音を立ててる間を抜けて彼らは大きな机の前へ行った。机の上にはアルコホル漬けにした蜘蛛《くも》の壜《びん》がいくつも並んでおり、その前の硝子器の中にも一匹大きなやつがじっと伏せられている。それがよく見ると、四対ある単眼の七つが、押し潰されて、そこに黒ずんだ粘液が盛り上っているのだ。
弟はそっとそれとその前にある黒眼鏡をかけた兄の蒼白い顔とを見較べた。
「これは盲《めくら》じゃないんだぜ。」そう言って兄は、アルコホルランプの焔で引き伸ばした細い硝子の棒の先端を蜘蛛の眼のところへ近づけた。蜘蛛は四ミリほどの褐色の剛毛の立っている脚で緩慢《かんまん》に方向を転じた。兄は冷く笑った。それから彼の前に並んでいる犠牲者たちの歴史を説明した。
彼はまず蜘蛛の雄と雌を捕えた。そしてその毛並みの艶《つや》やかな美男の雄の単眼の一つへ硝子の針を刺し通してから、これを花嫁に与えた。一群の子が生れた。拡大鏡で見ると、子は一人一人立派な眼の持ち主だった。子と子が結婚して一群の孫が生れた。孫のうちで一匹怪しいのがいた。それを飼養しておいて今日試験したのである。彼はこの蜘蛛の完全な眼を一つずつ硝子針で潰《つぶ》した。そしてその怪しい単眼一つを残しておいてその視力検査をやったのである。
アルコホル漬けになってるのは祖父母と子夫妻であった。
「それでつまり。」と弟が兄の顔を見ながら言った。兄は少し赧《あか》くなりながら、
「つまり俺の子にも眇《すがめ》は生れないってことになるからなあ。」
「おめでたはいつでしたっけ?」
「なあに、まだまだだがね。」そして兄は硝子器の中の蜘蛛を窓から外へ抛りだした。
弟は少し憂鬱になって試験所の外へ出た。彼は兄の幸福などよりは今年納める税金のことの方が大事だと考えた。すると今見てきた蜘蛛が頭の中をがさがさ這廻るような気がした。彼はきゅうに腹立たしくなってピッピッと唾《つば》を飛ばした。
座敷へ帰ると、嫂《あによめ》が写真を持ってはいってきた。彼はそれを受け取ると微笑しながら机の上の手文庫の中へ抛りこんだ。文庫の中には彼の結婚の候補者の写真がいっぱいになっているのだった。
「あれですもの。」と彼女が言った。彼は硬《こわ》ばった笑いを浮べながら寝転んだ。彼女の赤い腰紐が彼の眼の先きにあった。彼は眼をつぶった。そして始終繰り返えしているヨブ記の「野驢馬あに青草あるに鳴かんや。」という言葉をもう一遍くり返えした。嫂は非難するように彼を見ていた。それからふいと立って縁側に出た。向うの試験所の窓が明いて兄がこちらへ半身を現してるのだった。弟はそれを盗み見てまた眼を閉じた。
底本:「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
初出:「文芸時代」1924(大正13)年12月
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2001年11月29日公開
青空文庫作成ファイル:
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