神経をたてた。
 あたりに舟は一艘もいなかった。弟は裸になった。
「どこまで出るの?」と彼女が訊《き》いた。それには答えないで、弟は力限り漕《こ》いだ。彼の肩から二の腕へかけて真白な肉瘤が盛り上りその上に汗がいちめんに滲《にじ》んでいた。舟は彼のからだとともに劇《はげ》しく揺れ、空には星が輝き、そうして彼らは涯《はて》しのない淋しさの中へ出ていった。
 彼女は片手を兄の膝《ひざ》に載《の》せ、片手でしっかりと舟縁《ふなべ》りを掴んでいた。風に乱された彼女の髪が、兄の没表情な頬の上に散りかかってゆく。
「いやだ、いやだ。」そう言って彼女は身を震わせた。
「寂しいの。ばかだなあ。」そして兄は微笑んだ。
 弟は艪を止めて舟を流した。彼の大きな胸は彼らの方に向いて緩《ゆる》く波打っていた。
「疲れたろう。」と兄が言った。
「なあに。いけるところまでいくとおもしろいんだ。」
「そうだね。」
 もうすっかり闇《くら》くなっていた。近くの海面からイナの跳《は》ねる音がひびいてきた。そして水の中を白坊主のような水母《くらげ》がいくつも浮いて通った。彼女はあたりを見廻した。
「もし舟が覆《かえ》ったらどうしようかしら。」
 それを聞くと弟は大声で笑った。それから彼は言った。
「舟を漕ぎながら、ふいと気が違ってしまうと愉快だと思うがな。」
 今度は兄が声高《こわだか》に笑った。
「結局どうなるんだろう。」
「誰が?」
「誰って?」
「結局死ぬんさ。」
「結局死ぬんだろうなあ。」
「死ぬからつまらないさ。」
 そう言って兄は空を仰ぎ見た。そして彼女を顧《かえり》みた。
「見える?」
「なあに?」
「星さ。」
「あんなに光ってる。」
「闇《くら》いね。北斗星はどこ?」
 彼女は手を挙げた。兄は黒眼鏡のかかった顔をひたりとそれに寄せた。
 弟は櫂《かい》を握って立ち上った。舟ががぶりと揺れた。
「寒い、わたし。」そして彼女は坐りなおした。弟は彼女の膝へ彼の浴衣《ゆかた》を放り掛けた。それからまた沖へ漕ぎ初めた。彼女は劇《はげ》しくかぶりを振った。
「もう帰るんだ。」と兄が命令するように言った。弟は聞かずに漕いだ。舟は気違いのように暴れ進む。彼女は真蒼になって兄に抱きついた。兄はじっと弟を見据《みす》えて唇を噛んだ。
 弟は眼の前の空を見た。空の星が自分の汗の中へ溶けこんでくるほどの快さであっ
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
十一谷 義三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング