遍読んでも分らぬのが、訳の方では一度で種々の美所が分って来る、しかも其のイムプレッションを考えて見ると、如何にもバイロン的だ。即ちこれを要するに、覚束ない英語でバイロンを味うよりは、ジュコーフスキーの訳を読む方が労少くして得る所が多いのである。
 其処で自分は考えた、翻訳はこうせねば成功せまい、自分のやり方では、形に拘泥するの結果、筆力が形に縛られるから、読みづらく窮屈になる。これは宜しくジュコーフスキーの如く、形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を発揮する方がよい。とこうは思ったものの、さて自分は臆病だ、そんならと云うてこれを決行することが出来なかった。何故かと云うに、ジュコーフスキー流にやるには、自分に充分の筆力があって、よしや原詩を崩しても、その詩想に新詩形を附することが出来なくてはならぬのだが、自分には、この筆力が覚束ないと思われたからだ。従来やり来った翻訳法で見ると、よし成功はしない乍らも、形は原文に捉《つかま》っているのだから、非常にやり損うことがない。けれども、ジュコーフスキー流にやると、成功すれば光彩燦然たる者であるが、もし失敗したが最後、これほど見じめなものはな
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