ならず、読者に対してはどうかと云うに、これまた相済まぬ訳である……所謂羊頭を掲げて狗肉を売るに類する所業《しわざ》、厳しくいえば詐欺である。
之は甚《ひど》い進退維谷《ジレンマ》だ。実際的《プラクチカル》と理想的《アイディアル》との衝突だ。で、そのジレンマを頭で解く事は出来ぬが、併し一方生活上の必要は益※[#二の字点、1−2−22]迫って来るので、よんどころなくも『浮雲』を作《こしら》えて金を取らなきゃならんこととなった。で、自分の理想からいえば、不埒な不埒な人間となって、銭を取りは取ったが、どうも自分ながら情ない、愛想の尽きた下らない人間だと熟々《つくづく》自覚する。そこで苦悶の極、自《おのずか》ら放った声が、くたばって[#「くたばって」に傍点]仕舞《しめ》え[#「え」に傍点](二葉亭四迷)!
世間では、私の号に就ていろんな臆説を伝えているが、実際は今云った通りなんだ。いや、「仕舞《しめ》え!」と云って命令した時には、全く仕舞う時節が有るだろうと思ったね。――その解決が付けば、まずそのライフだけは収まりが付くんだから。で、私の身にとると「くたばッて仕舞え!」という事は、今でも有意味に響く。そこでこの心持ちが作の上にはどう現れているかと云うと、実に骨に彫《え》り、肉を刻むという有様で、非常な苦労で殆ど油汗をしぼる。が、油汗を搾るのは責めては自分の罪を軽め度いという考えからで、羊頭を掲げて狗肉を売る所なら、まア、豚の肉ぐらいにして、人間の口に入れられるものを作《こしら》え度い、という極く小心な「正直《しょうじき》」から刻苦するようになったんだ。翻訳になると、もう一倍輪をかけて斯ういう苦労がある。――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原形のまま日本へ移したら、露語を読めぬ人も幾分は原文の妙を想像する事が出来やせんか、と斯う思って、コンマも、ピリオドも、果ては字数までも原文の通りにしようという苦心までした。今考えると随分馬鹿げた話さ。併し斯う云って来ると、一図に「正直《しょうじき》」に忠実だったようだが、一方には実は大矛盾があったんだ。即ち大名誉心さ。……文壇の覇権手に唾して取るべしなぞと意気込んでね……いやはや、陋態《ろうたい》を極めて居たんだ。
その中《うち》に、人生問題に就て大苦悶に陥った事がある。それは例の「正直《しょうじき》」が段々崩されてゆくから起ったので先ず小説を書くことで「正直」が崩される、その他|種々《いろいろ》のことで崩される。つまり生活が次第に崩してゆくんだ。そして、こんな心持で文学上の製作に従事するから捗《はか》のゆかんこと夥しい。とても原稿料なぞじゃ私一身すら持耐《もちこた》えられん。況や家道は日に傾いて、心細い位置に落ちてゆく。老人共は始終愁眉を開いた例《ためし》が無い。其他|種々《いろいろ》の苦痛がある。苦痛と云うのは畢竟金のない事だ。冗《くど》い様だが金が欲しい。併し金を取るとすれば例の不徳をやらなければならん。やった所で、どうせ足りッこは無い。
ジレンマ! ジレンマ! こいつでまた幾ら苦められたか知れん。これが人生観についての苦悶を呼起した大動機になってるんだ。即ちこんな苦痛の中に住んでて、人生はどうなるだろう、人生の目的は何だろうなぞという問題に、思想上から自然に走ってゆく。実に苦しい。従ってゆっくりと其問題を研究する余裕がなく、ただ断腸の思ばかりしていた。腹に拠る所がない、ただ苦痛を免《のが》れん為の人生問題研究であるのだ。だから隙があって道楽に人生を研究するんでなくて、苦悶しながら遣っていたんだ。私が盛に哲学書を猟《あさ》ったのも此時で、基督教《キリストきょう》を覘《のぞ》き、仏典を調べ、神学までも手を出したのも、また此時だ。
全く厭世と極って了えば寧《いっ》そ楽だろうが、其時は矛盾だったから苦しんだ。世の中が何となく面白くない。と云った所で、捨てる訳にはゆかん。何となく懐しい所もある。理論から云っても、人生は生活の価値あるものやら、無いものやら解らん。感情上から云っても同じく解らん……つまる所、こんな煮え切らぬ感情があるから、苦しい境涯に居たのは事実だ。が、これは「厭世」と名くべきものじゃ無かろうと思う。
其時の苦悶の一端を話そうか。――当時、最も博く読まれた基督教の一雑誌があった。この雑誌では例の基督教的に何でも断言して了う。たとえば、此世は神様が作ったのだとか、やれ何だとか、平気で「断言」して憚らない。その態度が私の癪《しゃく》に触る。……よくも考えないで生意気が云えたもんだ。儚《はかな》い自分、はかない制限《リミテッド》
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