された頭脳《ヘッド》で、よくも己惚《うぬぼ》れて、あんな断言が出来たものだ、と斯う思うと、賤しいとも浅猿《あさま》しいとも云いようなく腹が立つ。で、ある時|小川町《おがわまち》を散歩したと思い給え。すると一軒の絵双紙屋の店前《みせさき》で、ひょッと眼に付いたのは、今の雑誌のビラ[#「ビラ」に傍点]だ。さア、其奴《そいつ》の垂れてるのを一寸瞥見しただけなんだが、私は胸がむかついて来た。形容詞じゃなく、真実《ほんと》に何か吐出しそうになった。だから急いで顔を背《そむ》けて、足早に通り抜け、漸《やっ》と小間物屋の開店だけは免れたが、このくらいにも神経的になっていた。思想が狂ってると同時に、神経までが変調になったので、そして其挙句が……無茶さ!
で、非常な乱暴をやっ了《ちま》った。こうなると人間は獣的嗜慾《アニマルアペタイト》だけだから、喰うか、飲むか、女でも弄《もてあそ》ぶか、そんな事よりしかしない。――一滴もいけなかった私が酒を飲み出す、子供の時には軽薄な江戸ッ児風に染まって、近所の女のあとなんか追廻したが、中年になって真面目になったその私が再び女に手を出す――全く獣的生活に落ちて、終《しまい》には盗賊《どろぼう》だって関わないとまで思った。いや、真実《ほんと》なんだ。
が、そこまでは豈夫《まさか》に思い切れなかった。人生は無意味《ノンセンス》だとは感じながらも、俺のやってる事は偽《うそ》だ、何か光明の来る時期がありそうだとも思う。要するに無茶さ。だから悪い事をしては苦悶する。……為《し》は為ても極端にまでやる事も出来ずに迷ってる。
そこでかれこれする間《うち》に、ごく下等な女に出会った事がある。私とは正反対に、非常な快活な奴で、鼻唄で世の中を渡ってるような女だった。無論浅薄じゃあるけれども、其処にまた活々とした処がある。私の様に死んじゃ居ない。で、其女の大口開いてアハハハハと笑うような態度が、実に不思議な一種の引力《アットラクション》を起させる。あながち惚れたという訳でも無い。が、何だか自分に欠乏してる生命の泉というものが、彼女《むこう》には沸々と湧いてる様な感じがする。そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向《ひなた》の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している。すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前に現《で》て来ている。――私の心というものは、その女に惹き付けられた。
これが併し動機になったんだ。勢い極まって其処まで行ったんだが、……これが畢竟《つまり》一転する動機となったんだ。
で、私はこんな事を考えた。――斯ういう風に実例を眼前に見て、苦しいとか、楽しいとか云う事は、人によって大変違う。例えば私が苦しいと思う事も、其女は何とも思わんかも知らん。それはまア浅薄で何とも思わないんだが、浅薄でなくてしかも何とも思わん人もある。それは誰かと云うに、孔子さんだろうと思う。悠々として天命を楽むのは実に豪《えら》い。例えば「死」なる問題は、今の所到底理論の解決以外だ。が、解決が出来たとした所で、死は矢張《やっぱ》り可厭《いや》だろう。ただ解決が出来れば幾分か諦《あきらめ》が付き易い効はあるが、元来「死」が可厭《いや》という理由があるんじゃ無いから――ただ可厭《いや》だから可厭《いや》なんだ――意味が解った所で、矢張《やっぱ》り何時迄も可厭《いや》なんだ。すると智識で「死」の恐怖を去る事は出来ん。死を怖れるのも怖れぬのも共に理由のない事だ。換言すれば其人の心持《メンタルトーン》にある。即ち孔子の如き仁者の「気象」にある。ああ云う聖人の様な心持で居たらば、死を怖れて取乱す事もあるまい。人生の苦痛に対しても然り、聖人だって苦痛は有る、が、その間に一分の余裕があって取乱さん。悠々として迫らぬ気象、即ち「仁」がある。だから思想上で人生問題の解決が付くか否か解らんが、一方で人間に「仁」の気象を養ったら、何となく人生を超絶して、一段上に出る塩梅《あんばい》で、苦痛にも何にも捉えられん、仏者の所謂自在天に入りはすまいかと考えた。
そこで、心理学の研究に入った。
古人は精神的《メンタリー》に「仁」を養ったが、我々新時代の人は物理的《フヒジカリー》に養うべきではなかろうかという考になった。
心理学、医学に次いで、生理心理学を研究し始めた。是等に関する英書は随分|蒐《あつ》めたもので、殆ど十何年間、三十歳を越すまで研究した。呉博士《くれはくし》と往復したのも、参考書類を読破しようという熱心から独逸語を独修したのも、此時だ。けれども其結果、どうも個人の力じゃ到底やり切れんと悟った。ヴントの実験室《ラボラトリー》、ジェームスの実験室《ラボラト
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