ワ》しちゃ厭よ。」
「誰がそんな……」
「まあ、好かった!」と又|莞爾《にっこり》して一寸《ちょっと》私の面《かお》を見た。

          二十八

 私は先刻《さッき》から存在を認めていられないようだから、其隙《そのひま》に窃《こッ》そり雪江さんの面《かお》を視ていたのだ。雪江さんは私よりも一つ二つ、それとも三《みッ》つ位《ぐらい》年下かも知れないが、お出額《でこ》で、円い鼻で、二重|顋《あご》で、色白で愛嬌が有ると謂えば謂うようなものの、声程に器量は美《よ》くなかった。が、若い女は何処となく好くて、私がうッかり面《かお》を視ている所を、不意に其面《そのかお》が此方《こちら》を向いたのだから、私は驚いた。驚いて又|俯向《うつむ》いて、膝前一尺通りの処を佶《きっ》と視据えた。
 雪江さんは又|更《あらた》めて私の様子をジロジロ視ているようだったが、
「部屋は何処にするの?」
 と阿母《かあ》さんの方を向く。
「え?」と阿母《かあ》さんは雪江さんの面《かお》を視て、「あの、何のかい? 玄関脇の四畳が好かろうと思って。」
「あんな処《とこ》※[#感嘆疑問符、1−8−78] ……」
 と雪江さんが一寸《ちょっと》驚くのを、阿母《かあ》さんが眼に物言わせて、了解《のみこ》ませて、
「彼処《あすこ》が一番明るくッて好《い》いから。」
「そう」、と一切の意味を面《かお》から引込《ひッこ》めて、雪江さんは澄して了った。
「おお、そうだっけ」、と阿母《かあ》さんの奥様は想出したように私の方を向いて、「荷物がまだ其儘でしたっけね。今案内させますから、彼方《あッち》へ行って荷物の始末でもなさい。雪江、お前|一寸《ちょっと》案内してお上げ。」
 雪江さんが起《た》ったから、私も起《た》って其跟《そのあと》に随《つ》いて今度は椽側へ出た。雪江さんは私より脊《せい》が低い。ふッくりした束髪で、リボンの色は――彼《あれ》は樺色というのか知ら。若い女の後姿というものは悪くないものだ。
 椽側を後戻りして又玄関へ出ると、成程玄関脇に何だか一間ある。
「此処よ。」
 と雪江さんが衝《つい》と其処へ入ったから、私も続いて中へ入った。奥様は明るいといったけれど、何だか薄暗い長四畳で、入るとブクッとして変な足応《あしごた》えだったから、先ず下を見ると、畳は茶褐色だ。西に明取《あかりと》りの小窓がある。雪江さんが其を明けて呉れたので、少し明るくなったから、尚お能《よ》く視廻《みまわ》すと、壁は元来何色だったか分らんが、今の所では濁黒《どすぐろ》い変な色で、一ヵ所|壊《くず》れを取繕《とりつくろ》った痕《あと》が目立って黄ろい球《たま》を描いて、人魂《ひとだま》のように尾を曳いている。無論一体に疵《きず》だらけで処々《ところどころ》鉛筆の落書の痕《あと》を留《とど》めて、腰張の新聞紙の剥《めく》れた蔭から隠した大疵《おおきず》が窃《そっ》と面《かお》を出している。天井を仰向《あおむ》いて視ると、彼方此方《あちこち》の雨漏りの暈《ぼか》したような染《しみ》が化物めいた模様になって浮出していて、何だか気味《きび》の悪いような部屋だ。
「何時《いつ》の間にか掃除したんだよ。それでも奇麗になったわ」、と雪江さんは部屋の中を視廻《みまわ》していたが、ふと片隅に積んであった私の荷物に目を留て、「貴方《あなた》の荷物って是れ?」と、臆面もなく人の面《かお》を視る。
 私は狼狽《あわ》てて壁を視詰《みつめ》て、
「然うです。」
「机がないわねえ。私《あたし》ン所《とこ》に明いてるのが有るから、貸て上《あげ》ましょうか?」
「なに、好《い》いです明日《あした》買って来るから」、と矢張《やっぱり》壁を視詰《みつ》めた儘で。
「私《あたし》要らないンだから、使っても好くってよ。」
「なに、好《い》いです、買って来るから。」
「本当《ほんと》に好くってよ、然う遠慮しないでも。今持って来てよ」、と蝶の舞うように翻然《ひらり》と身を翻《かえ》して、部屋を出て、姿は直ぐ見えなくなったが、其処らで若い華やかな声で、「其代り小さくッてよ」、というのが聞えて、軽い足音がパタパタと椽側を行く。
 私は荷物の始末を忘れて、雪江さんの出て行った跡《あと》をうっかり見ていた。事に寄ると、口を開《あ》いていたかも知れぬ。

          二十九

 荷物を解《ほど》いていると、雪江さんが果して机を持って来て呉れた。成程小さい――が、折角の志《こころざし》を無にするも何だから、借りて置く事にして、礼をいって窓下《まどした》に据えると、雪江さんが、それよか入口の方が明るくッて好かろうという。入口では出入《ではい》りの邪魔になると思ったけれど、折角の助言《じょごん》を聴かぬのも何だから、言う通りに据直《すえ
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