勝の、割の悪いものだから、勝気の祖母はこれが悔しくて堪《たま》らない。それで、何の、女でこそあれ、と気を張る。気を張て油断をしなかったから、一生人に後指《うしろゆび》を差されるような過失はなかった代り、余り人に愛しもされずに年を取って了って、父の代となった。
 父は祖母とは全《まる》で違っていた。如何《どう》して此人の腹に此様《こん》な人がと怪しまれる程の好人物で、面《かお》も薩張《さっぱ》り似ていなかった。大きな、笑うと目元に小皺《こじわ》の寄る、豊頬《ふっくり》した如何《いか》にも愛嬌のある円顔で、形《なり》も大柄だったが、何処か円味が有り、心も其通り角《かど》が無かった。快活で、蟠《わだかま》りがなくて、話が好きで、碁が好きで、暇《ひま》さえ有れば近所を打ち歩き、大きな嚏《くしゃみ》を自慢にする程の罪のない人だった。祖父が矢張《やっぱり》然うであったと云うから、大方其気象を受継いだのであろう。
 父は此様《こん》な人だし、母は――私の子供の時分の母は、手拭を姉様冠《あねさまかぶ》りにして襷掛《たすきが》けで能《よ》くクレクレ働く人だった。其頃の事を誰《たれ》に聞いても、皆|阿母《おっか》さんは能く辛抱なすったとばかりで、其他《そのた》に何も言わぬから、私の記憶に残る其時分の母は、何時迄《いつまで》経《た》っても矢張《やっぱ》り手拭を姉様冠《あねさまかぶ》りにして、襷掛《たすきが》けで能《よ》くクレクレ働く人で、格別|如何《どう》いう人という事もない。
 斯ういう家庭だったから、自然祖母が一家の実権を握っていた。家内中の事一から十迄祖母の方寸に捌《さば》かれて、母は下女か何ぞの様に逐使《おいつか》われる。父も一向家事には関係しないで、形式的に相談を受ければ、好うがしょう、とばかり言っている。然う言っていないと、祖母の機嫌が悪い、面倒だ。
 母方の伯父で在方《ざいかた》で村長をしていた人があった。如何《どう》したのだか、祖母とは仲悪で、死後迄余り好くは言わなかったが、何かの話の序《ついで》に、阿母《おっか》さんもお祖母《ばあ》さんには随分泣されたものだよ、と私に言った事がある。成る程折々母が物蔭で泣いていると、いつも元気な父が其時ばかりは困った顔をして何か密々《ひそひそ》言っているのを、子供心にも不審に思った事があったが、それが伯父の謂うお祖母《ばあ》さんに泣かされていたのだったかも知れぬ。
 兎に角祖母は此通り気難かし家であったが、その気難かし家の、死んだ後迄《あとまで》噂に残る程の祖母が、如何《どう》いうものだか、私に掛ると、から意久地がなかった。

          四

 何で祖母が私に掛ると、意久地が無くなるのだか、其は私には分らなかった。が、兎に角意久地の無くなるのは事実で、評判の気難かし家が、如何《どう》にでも私の思う様になって了う。
 まず何か欲しい物がある。それも無い物ねだりで、有る結構な干菓子は厭で、無い一文菓子が欲しいなどと言出して、母に強求《ねだ》るが、許されない。祖母に強求《ねだ》る、一寸《ちょっと》渋る、首玉《くびったま》へ噛《かじ》り付《つ》いて、ようようと二三度鼻声で甘垂《あまた》れる、と、もう祖母は海鼠《なまこ》の様になって、お由《よし》――母の名だ――彼様《あんな》に言うもんだから、買って来てお遣りよ、という。祖母の声掛りだから、母も不承々々|起《た》って、雨降《あめふり》でも私の口のお使に番傘|傾《かた》げて出懸けようとする。斯うなると、流石《さすが》の父も最う笑ってばかりは居られなくなって、小言をいう。私が泣く、祖母の機嫌が悪い。
「此様《こんな》小さい者を其様《そんな》に苛《いじ》めて育てて、若しか俊坊《としぼう》の様な事にでもなったら、如何《どう》おしだ? 可哀《かわい》そうじゃないか。」
 というのが口切で、ボツリボツリと始める。俊坊というのは私の兄で、私も虚弱だったが、矢張《やっぱり》虚弱で、六ツの時|偸《と》られたのだそうだ。それも急性|胃加答児《いカタル》で偸《と》られたのだと云うから、事に寄ると祖母が可愛がりごかしに口を慎ませなかった祟《たたり》かも知れぬ。併し虚弱な児《こ》は大食させ付ると達者になると言われて、然うかなと思う程の父だから、祖母の矛盾には気が附かない。矢張《やっぱり》有触れた然う我儘をさせ付けては位《ぐらい》の所で切脱《きりぬ》けようとする。祖母も其は然う思わぬでもないから、内々《ないない》自分が無理だと思うだけに激する、言葉が荒くなる。もう此上|憤《おこ》らせると、又三日も物を言わなかった挙句、ぷいと家《うち》を出て在《ざい》の親類へ行った切《きり》帰らぬという騒も起りかねまじい景色なので、父は黙って了う。母も黙って出て行く。と、もう廿分も経《た》つと
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