った事が、玩具《おもちゃ》のカレードスコープを見るように、紛々《ごたごた》と目まぐるしく心の上面《うわつら》を過ぎて行く。初は面白半分に目を瞑《ねむ》って之に対《むか》っている中《うち》に、いつしか魂《たましい》が藻脱《もぬ》けて其中へ紛れ込んだように、恍惚《うっとり》として暫く夢現《ゆめうつつ》の境を迷っていると、
「今日《こんち》は! 桝屋《ますや》でございます!」
 と、ツイ障子|一重《ひとえ》其処の台所口で、頓狂な酒屋の御用の声がする。これで、私は夢の覚めたような面《かお》になる。で、ぼやけた声で、
「まず好かったよ。」
 酒屋の御用を逐返《おいかえ》してから、おお、斯うしてもいられん、と独言《ひとりごと》を言って、机を持出して、生計《くらし》の足しの安翻訳を始める。外国の貯蓄銀行の条例か何ぞに、絞ったら水の出そうな頭を散々悩ませつつ、一枚二枚は余所目《よそめ》を振らず一心に筆を運ぶが、其中《そのうち》に曖昧《あやふや》な処に出会《でっくわ》してグッと詰ると、まず一服と旧式の烟管《きせる》を取上げる。と、又忽然として懐かしい昔が眼前に浮ぶから、不覚《つい》其に現《うつつ》を脱かし、肝腎の翻訳がお留守になって、晩迄に二十枚は仕上げる積《つもり》の所を、十枚も出来ぬ事が折々ある。
 こうどうも昔ばかりを憶出していた日には、内職の邪魔になるばかりで、卑《さも》しいようだが、銭《ぜに》にならぬ。寧《いつ》そのくされ、思う存分書いて見よか、と思ったのは先達《せんだっ》ての事だったが、其後《そのご》――矢張《やっぱ》り書く時節が到来したのだ――内職の賃訳が弗《ふっ》と途切れた。此暇《このひま》を遊《あす》んで暮すは勿体ない。私は兎に角書いて見よう。
 実は、極く内々《ないない》の話だが、今でこそ私は腰弁当と人の数にも算《かず》まえられぬ果敢《はか》ない身の上だが、昔は是れでも何の某《なにがし》といや、或るサークルでは一寸《ちょっと》名の知れた文士だった。流石《さすが》に今でも文壇に昔馴染《むかしなじみ》が無いでもない。恥を忍んで泣付いて行ったら、随分一肩入れて、原稿を何処かの本屋へ嫁《かたづ》けて、若干《なにがし》かに仕て呉れる人が無いとは限らぬ。そうすりゃ、今年の暮は去年のような事もあるまい。何も可愛《かわゆ》い妻子《つまこ》の為だ。私は兎に角書いて見よう。
 さて、題だが……題は何としよう? 此奴《こいつ》には昔から附倦《つけあぐ》んだものだッけ……と思案の末、礑《はた》と膝を拊《う》って、平凡! 平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ、と題が極《きま》る。
 次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊《いささ》かも技巧を加えず、有《あり》の儘に、だらだらと、牛の涎《よだれ》のように書くのが流行《はや》るそうだ。好《い》い事が流行《はや》る。私も矢張《やっぱ》り其で行く。
 で、題は「平凡」、書方は牛の涎《よだれ》。
 さあ、是からが本文《ほんもん》だが、此処らで回を改めたが好かろうと思う。

          三

 私は地方生れだ。戸籍を並べても仕方がないから、唯某県の某市として置く。其処で生れて其処で育ったのだ。
 子供の時分の事は最う大抵忘れて了ったが、不思議なもので、覚えている事だと、判然《はっきり》と昨日《きのう》の事のように想われる事もある。中にも是ばかりは一生目の底に染付《しみつ》いて忘れられまいと思うのは十の時死別れた祖母の面《かお》だ。
 今でも目を瞑《ねむ》ると、直ぐ顕然《まざまざ》と目の前に浮ぶ。面長《おもなが》の、老人だから無論|皺《しわ》は寄っていたが、締った口元で、段鼻で、なかなか上品な面相《かおつき》だったが、眼が大きな眼で、女には強過《きつすぎ》る程|権《けん》が有って、古屋の――これが私の家《うち》の姓だ――古屋の隠居の眼といったら、随分評判の眼だったそうだ。成程然ういえば、何か気に入らぬ事が有って祖母が白眼《しろめ》でジロリと睨《にら》むと、子供心にも何だか無気味だったような覚《おぼえ》がまだ有る。
 大抵の人は気象が眼へ出ると云う。祖母が矢張《やっぱ》り其だった。全く眼色《めつき》のような気象で、勝気で、鋭くて、能《よ》く何かに気の附く、口も八丁手も八丁という、一口に言えば男勝《おとこまさ》り……まあ、そういった質《たち》の人だったそうな、――私は子供の事で一向夢中だったが。
 生長後親類などの話で聞くと、それというが幾分か境遇の然らしめた所も有ったらしい――というのは、早く祖父に死なれて若い時から後家を徹《とお》して来た。後家という者はいつの世でも兎角人に影口《かげぐち》言れ
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