@何《どう》とかして、掃溜《はきだめ》の隅で如何《どう》とかしている処を、犬に吠付かれて蒼くなって逃げたとか、何とか、その醜穢《しゅうわい》なること到底筆には上せられぬ。それも唯其丈の話で、夫だから如何《どう》という事もない。君、モーパッサンの捉まえどこだね、という位《ぐらい》が落だ。
 これで最う帰るかと思うと、なかなか以て! 君ねえ、僕はねえと、また僕の事になって、其中《そのうち》に世間の俗物共を眼中に措《お》かないで、一つ思う存分な所を書いて見ようと思うという様な事を饒舌《しゃべ》って、文士で一生貧乏暮しをするのだもの、ねえ、君、責《せめ》て後世にでも名を残さなきゃアと、堪《たま》らない事をいう。プスリプスリと燻《いぶ》るような気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を吐いて、散々人を厭がらせた揚句に、僕は君に万斛《ばんこく》の同情を寄せている、今日は一つ忠告を試みようと思う、というから、何を言うかと思うと、「君も然う所帯染みて了わずと、一つ奮発して、何か後世へ残し玉え。」
 こんなのは文壇でも流石《さすが》に屑の方であろう。しかし不幸にして私の友人は大抵屑ばかりだ。こんな人のこんな風袋《ふうたい》ばかり大きくても、割れば中から鉛の天神様が出て来るガラガラのような、見掛倒しの、内容に乏しい、信切な忠告なんぞは、私は些《ちッ》とも聞き度《たく》ない。私の願は親の口から今一度、薄着して風邪をお引きでない、お腹が減《す》いたら御飯にしようかと、詰らん、降《くだ》らん、意味の無い事を聞きたいのだが……
 その親達は最う此世に居ない。若し未だ生きていたら、私は……孝行をしたい時には親はなしと、又しても俗物は旨い事を言う。ああ、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、憶出すのは親の事……それにポチの事だ。

          十

 ポチは言う迄もなく犬だ。
 来年は四十だという、もう鬢《びん》に大分|白髪《しらが》も見える、汚ない髭の親仁《おやじ》の私が、親に継いでは犬の事を憶い出すなんぞと、余《あんま》り馬鹿気ていてお話にならぬ――と、被仰《おっしゃ》るお方が有るかも知れんが、私に取っては、ポチは犬だが……犬以上だ。犬以上で、一寸《ちょっと》まあ、弟……でもない、弟以上だ。何と言ったものか? ……そうだ、命だ、第二の命だ。恥を言わねば理《り》が聞こえぬというから、私は理《り》を聞かせる為に敢て耻を言うが、ポチは全く私の第二の命であった。其癖初めを言えば、欲しくて貰った犬ではない、止むことを得ず……いや、矢張《やっぱり》あれが天から授かったと云うのかも知れぬ。
 忘れもせぬ、祖母の亡《なく》なった翌々年《よくよくとし》の、春雨のしとしとと降る薄ら寒い或夜の事であった。宵惑《よいまどい》の私は例の通り宵の口から寝て了って、いつ両親《りょうしん》は寝《しん》に就いた事やら、一向知らなかったが、ふと目を覚すと、有明《ありあけ》が枕元を朦朧《ぼんやり》と照して、四辺《あたり》は微暗《ほのぐら》く寂然《しん》としている中で、耳元近くに妙な音がする。ゴウというかとすれば、スウと、或は高く或は低く、単調ながら拍子を取って、宛然《さながら》大鋸《おおのこぎり》で大丸太を挽割《ひきわ》るような音だ。何だろうと思って耳を澄していると、時々其音が自分と自分の単調に※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》いたように、忽ちガアと慣れた調子を破り、凄じい、障子の紙の共鳴りのする程の音を立てて、勢込んで何処へか行きそうにして、忽ち物に行当ったように、礑《はた》と止む。と、しばらく闃寂《ひッそ》となる――その側《そば》から、直ぐ又穏かにスウスウという音が遠方に聞え出して、其が次第に近くなり、荒くなり、又耳元で根気よくゴウ、スウ、ゴウ、スウと鳴る。
 私は夜中に滅多に目を覚した事が無いから、初は甚《ひど》く吃驚《びっくり》したが、能《よ》く研究して見ると、なに、父の鼾《いびき》なので、漸《やっ》と安心して、其儘再び眠ろうとしたが、壮《さかん》なゴウゴウスウスウが耳に附いて中々|眠付《ねつか》れない。仕方がないから、聞える儘に其音に聴入っていると、思做《おもいな》しで種々《いろいろ》に聞える。或は遠雷《とおかみなり》のように聞え、或は浪の音のようでもあり、又は火吹達磨《ひふきだるま》が火を吹いてるようにも思われれば、ゴロタ道を荷馬車が通る音のようにも思われる。と、ふと昼間見た絵本の天狗が酒宴を開いている所を憶出して、阿爺《おとっ》さんが天狗になってお囃子《はやし》を行《や》ってるのじゃないかと思うと、急に何だか薄気味《うすきび》悪くなって来て、私は頭からスポッと夜着《よぎ》を冠《かむ》って小さくなった。けれども、天狗のお囃子《はやし》は夜着の襟か
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