sうわさ》をして観たそうな事を言う。と、私も何だか観せてやり度《たく》なって、芝居だって観ように由っては幾何《いくら》掛るもんかと、不覚《つい》口を滑らせると、お糸さんが例《いつ》になく大層喜んだ。お糸さんは何を貰っても、澄して礼を言って、其場では左程嬉しそうな面《かお》もせぬ女だったが、此時ばかりは余程嬉しかったと見えて、大層喜んだ。
 もう後悔しても取反《とりかえ》しが附かなくなって、止《や》むことを得ず好加減《いいかげん》な口実を設けて別々に内を出て、新富座を見物した其夜《そのよ》の事。お糸さんを一足先へ還《かえ》し、私一人|後《あと》から漫然《ぶらり》と下宿へ帰ったのは、夜《よ》の彼此《かれこれ》十二時近くであったろう。もう雨戸を引寄せて、入口の大《おお》ランプも消してあった。跡仕舞《あとじまい》をしているお竹が睡《ねむ》たそうな声でお帰ンなさいと言ったが、お糸さんの姿は見えなかった。
 部屋へ来てみると、ランプを細くして既《も》う床も敷《と》ってある。私は桝《ます》でお糸さんと膝を列べている時から、妙に気が燥《いら》って、今夜こそは日頃の望をと、芝居も碌に身に染《し》みなかった。時々ふと気が変って、此様《こん》な女に関係しては結果が面白くあるまいと危ぶむ。其側《そのそば》から直ぐ又今夜こそは是が非でもという気になる。で、今我部屋へ来て床の敷《と》ってあるのを見ると、もう気も坐《そぞ》ろになって、余《よ》の事なぞは考えられん。今にも屹度《きっと》来るに違いない、来たら……と其事ばかりを考えながら、急いで寝衣《ねまき》に着易《きか》えて床へ入ろうとして、ふと机の上を見ると、手紙が載せてある。手に取って見ると、国からの手紙だ。心は狂っていても、流石《さすが》に父の事は気になるから、手早く封を切って読むと、まず驚いた。

          五十九

 此手紙で見ると、大した事ではないと思っていた父の病気は其後《そのご》甚だ宜しくない。まだ医者が見放したのでは無いけれど、自分は最う到底《とて》も直らぬと覚悟して、切《しき》りに私に会いたがっているそうだ。此手紙御覧次第|直様《すぐさま》御帰国|待入《まちいり》申候《もうしそろ》と母の手で狼狽《うろた》えた文体《ぶんてい》だ。
 私は孝行だの何だのという事を、道学先生の世迷言《よまいごと》のように思って、鼻で遇《あし》らっていた男だが、不思議な事には、此時此手紙を読んで吃驚《びっくり》すると同時に、今夜こそはと奮《いき》り立っていた気が忽ち萎《な》えて、父母《ちちはは》が切《しき》りに懐かしく、何だか泣きたいような気持になって、儘になるなら直《すぐ》にも発《た》ちたかったが、こうなると当惑するのは、今日の観劇の費用が思ったよりも嵩《かさ》んで、元より幾何《いくばく》もなかった懐中が甚だ軽くなっている事だ。父が病気に掛ってから、度々送金を迫られても、不覚《つい》怠《おこた》っていたのだから、家《うち》の都合も嘸《さ》ぞ悪かろう。今度こそは多少の金を持って帰らんでは、如何《いか》に親子の間でも、母に対しても面目《めんぼく》ない。といって、お糸さんに迷ってから、散々無理を仕尽した今日此頃、もう一文《もん》の融通《ゆうずう》の余地もなく、又余裕もない。明日《あす》の朝二番か三番で是非|発《た》たなきゃならんがと、当惑の眼《まなこ》を閉じて床の中で凝《じっ》と考えていると、スウと音を偸《ぬす》んで障子を明ける者が有るから、眼を開《あ》いて見ると、先刻《さっき》迄|待憧《まちこが》れて今は忘れているお糸さんだ。窃《そっ》と覗込んで、小声で、「もうお休みなすったの?」といいながら、中へ入って又|窃《そっ》と跡を閉《し》めたのは、十二時過で遠慮するのだったかも知れぬが、私は一寸《ちょっと》妙に思った。
「どうも有難うございました」、とのめるように私の床の側《そば》に坐りながら、「好かったわねえ」、と私と顔を看合わせて微笑《にッこり》した。
 今日は風呂日だから、帰ってから湯へ入ったと見えて、目立たぬ程に薄《うッす》りと化粧《けわ》っている。寝衣《ねまき》か何か、袷《あわせ》に白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》を襲《かさ》ねたのを着て、扱《しごき》をグルグル巻にし、上に不断の羽織をはおっている秩序《しどけ》ない姿も艶《なま》めかしくて、此人には調和《うつり》が好《い》い。
「一本頂戴よ」、といいながら、枕元の机の上の巻烟草《まきたばこ》を取ろうとして、袂《たもと》を啣《くわ》えて及腰《およびごし》に手を伸ばす時、仰向《あおむ》きに臥《ね》ている私の眼の前に、雪を欺《あざむ》く二の腕が近々と見えて、懐かしい女の香《か》が芬《ぷん》とする。
「何だかまだ芝居に居るような気がして相済まないけど」、とお糸さ
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