「なり次第になって半歳《はんとし》も然うして居たんですよ。そうすると、私《あたし》の事がいつかお神さんに知れて、死ぬの生《いき》るのという騒ぎが起ってみると、元々養子の事だから……」
「養子なんですか?」
「ええ、養子なんですとも。養子だから、ほら、私《あたし》を棄てなきゃ、看《み》す看《み》す何万という身台を棒に振らなきゃならんでしょう? ですから、出るの引くのと揉め返した挙句が、詰る所《とこ》私《あたし》はお金で如何《どう》にでもなると見括《みくび》ったんでしょう、人を入て別話《わかればなし》を持出したから、私《あたし》ゃもう踏んだり蹶《け》たりの目に逢わされて、口惜《くや》しくッて口惜しくッて、何だかもうカッと逆上《のぼ》せッ了《ちま》って、本当《ほんと》に一|時《じ》は井戸川《いどかわ》へでも飛込ん了《じま》おうかと思いましたよ。」
「御尤《ごもっとも》です。」
「ですけど私《あたし》が死んじまや、幸手屋《さってや》の血統《ちすじ》は絶えるでしょう? それでは御先祖様にも、又ね、死んだ親達にも済まないと思って、無分別は出しませんでしたけど、余《あん》まり口惜《くや》しかったから、お金も出そうと言ったのを、そんなお金なんぞに目をくれるお糸さんじゃない何か言って、タンカを切ってね、一|文《もん》も貰わずに、頭の物なんか売飛ばして、其を持って帰って来たは好かったけど、其代り今じゃスッテンテンで、髪結銭《かみゆいせん》も伯母さん済みませんがという始末ですのさ。余程《よっぽど》馬鹿ですわねえ。」
「いや。面白い気象だ。」
「ですから、私《あたし》は、貴方《あなた》の前ですけど、もうもう男は懲々《こりごり》。そりゃあね、稀《たま》には旦那のような優しい親切なお方も有りますけど、どうせ私《あたし》のような者《もん》の相手になる者ですもの、皆《みんな》其様《そん》な薄情な碌でなしばかしですわ。」
「いや、御尤《ごもっと》もです。」
「まあ、自分の勝手なお饒舌《しゃべり》ばかりしていて、お燗《かん》が全然《すっかり》冷《さ》め了《ちゃ》った。一寸《ちょっと》直して参りましょう。」
「御尤《ごもっと》もです……」
五十七
お糸さんがお燗《かん》を直しに起《た》った隙《ひま》に、爰《ここ》で一寸《ちょっと》国元の事情を吹聴《ふいちょう》して置く。甞て私が学校を除籍せられた時、父が学資の仕送りを絶ったのは、斯《こう》もしたら或は帰って来るかと思ったからだ。ところが、私が如何《どう》にか斯うにか取続《とりつづ》いて帰らなかったので、両親は独息子《ひとりむすこ》を玉《たま》なしにしたように歎いて、父の白髪《しらが》も其時分僅の間《あいだ》に滅切《めっき》り殖《ふ》えたと云う。伯父が見兼ねて、態々《わざわざ》上京して、もう小説家になるなとは言わぬ、唯是非一度帰省して両親の心を安めろと懇《ねんごろ》に諭《さと》して呉れた。そう言われて見ると、夫《それ》でもとも言兼ねて、私は其時伯父に連れられて久振で帰省したが、父の面《かお》を見るより、心配を掛けた詫をする所《どころ》か、卒然《いきなり》先ず文学の貴《たっと》い所以《ゆえん》を説いて聴かせて、私は堕落したのじゃない、文学に於て向上の一路を看出《みいだ》したのだ、堕落なんぞと思われては心外だと喰って懸ると、気の練れた父は敢て逆《さから》わずに、昔者《むかしもの》の己《おれ》には然ういう六《むず》かしい事は分らぬから、己《おれ》はもう何にも言わぬ、お前の思う通りにしろだが、東京へ出てから二年許りの間《あいだ》に遣《つか》った金は、地所を抵当に入れて借りた金だ。己《おれ》は無学で働きがないから、己《おれ》の手では到底《とて》も返せない。何とかしてお前の手で償却の道を立《たて》て呉れ。之を償却せん時には、先祖の遺産を人手に渡さねばならぬ。それではどうもお位牌に対しても済まぬから、己《おれ》は始終《しょっちゅう》其が苦になっての……と眼を瞬《しばだた》かれた時には、私も妙な心持がした。で、何にも当《あて》はなかったけれど、其式《それしき》の負債は直《じ》き償却して見せるように広言を吐き、月々なし崩しの金額をも極《き》めて再び出京したが、出京して見ると、物価騰貴に付き下宿料は上る、小遣も余計に入《い》る、負債償却の約束は不知《つい》空約束になって了った。その稍《やや》実行の緒《しょ》に就いたのは当り作が出来てからで、夫《それ》からは原稿料の手に入《い》る度に多少の送金はしていたけれど、夫とても残らず負債の方へ入れて了うので、少しも家計の足しにはならなかった。父は疾《と》うに県庁の方も罷《や》められて、其後《そのご》一寸《ちょっと》学校の事務員のような事もしていたが、それも直き又|罷《や》
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