向が見えて来たと曰う。世間の所謂《いわゆる》家庭教育というものは皆是ではないか。私は幸いにして親達が無教育無理想であったばかりに、型に推込まれる憂目《うきめ》を免《のが》れて、野育ちに育った。野育ちだから、生来具有の百の欠点を臆面もなく暴《さら》け出して、所謂《いわゆる》教育ある人達を顰蹙《ひんしゅく》せしめたけれど、其代り子供の時分は、今の様に矯飾《きょうしょく》はしなかった。皆《みんな》無教育な親達のお蔭だ。難有《ありがた》い事だと思う。真《しん》に難有《ありがた》い事だと思う。
 しかし内拡《うちひろ》がりの外窄《そとすぼ》まりと昔から能《よ》く俗人が云う。哲人の深遠な道理よりも、詩人の徹底した見識よりも、平凡な私共の耳には此方が入《い》り易い。不思議な事には、無理想の俗人の言う事は皆活きて聞える。
 私が矢張《やッぱり》其|内拡《うちひろが》りの外窄《そとすぼ》まりであった。

          六

 内ン中の鮑《あわび》ッ貝、外へ出りゃ蜆《しじみ》ッ貝、と友達に囃《はや》されて、私は悔しがって能《よ》く泣いたッけが、併し全く其通りであった。
 如何《どう》いうものだか、内でお祖母《ばあ》さんが舐《なめ》るようにして可愛がって呉れるが、一向嬉しくない。反《かえっ》て蒼蠅《うるさ》くなって、出るなと制《と》める袖の下を潜って外へ駈出す。
 しかし一歩|門外《もんそと》へ出れば、最う浮世の荒い風が吹く。子供の時分の其は、何処にも有る苛《いじ》めッ児《こ》という奴だ。私の近処にも其が居た。
 勘《かん》ちゃんと云って、私より二ツ三ツ年上で、獅子ッ鼻の、色の真黒けな児《こ》だったが、斯ういうのに限って乱暴だ。親仁《おやじ》は郵便局の配達か何かで、大酒呑で、阿母《おふくろ》はお引摺《ひきずり》と来ているから、常《いつ》も鍵裂《かぎざき》だらけの着物を着て、踵《かかと》の切れた冷飯草履《ひやめしぞうり》を突掛け、片手に貧乏徳利を提げ、子供の癖に尾籠《びろう》な流行歌《はやりうた》を大声に唱《うた》いながら、飛んだり、跳ねたり、曲駈《きょくがけ》というのを遣り遣り使に行く。始終使にばかり行っても居なかったろうが、私は勘ちゃんの事を憶出すと、何故だか常《いつ》も其使に行く姿を想出《おもいだ》す。
 勘ちゃんは家《うち》では何も貰えぬから、人が何か持ってさえいれば、屹度《きっと》欲しがって、卒直にお呉ンなと云う。機嫌好く遣れば好し、厭だと頭振《かぶり》を振ると、顋《あご》を突出して、好《い》いよ好いよと云う。薄気味《うすきび》悪くなって遣ろうとするが、最う受取らない。好《い》いよ、呉れないと云ったね、好《い》いよと、其許《そればか》りを反覆《くりかえ》して行って了う。何となく気になるが、子供の事だ、遊びに耋《ほう》けて忘れていると、何時《いつ》の間にか勘ちゃんが、使の帰りに何処かで蛇の死んだのを拾って来て、窃《そっ》と背後《うしろ》から忍び寄て、卒然《いきなり》ピシャリと叩き付ける。ワッと泣き声揚げて此方《こちら》は逃出す、其後姿を勘ちゃんは白眼《しろめ》で見送って、「様《ざま》ア見やがれ!」
 私は散々此勘ちゃんに苛《いじ》められた。初こそ悔しがって武者振り付いても見たが、勘ちゃんは喧嘩の名人だ。直《すぐ》と足搦《あしがら》掛けて推倒《おしたお》して置いて、馬乗りに乗ってピシャピシャ打《ぶ》つ。私にはお祖母《ばあ》さんが附いてるから、内では親にさえ滅多に打《ぶ》たれた事のない頭だ。その大切にせられている頭を、勘ちゃんは遠慮せずにピシャピシャ打《ぶ》つ。
 一|度《ど》酷《ひど》い目に遭ってから、私は勘ちゃんが可怕《こわ》くて可怕くてならなくなった。勘ちゃんが側《そば》へ来ると、最う私は恟々《おどおど》して、呉れと言わない中《うち》から持ってる物を遣り、勘ちゃん、あの、賢ちゃんがね、お前の事を泥棒だッて言ってたよと、余計な事迄|告口《つげぐち》して、勉めて御機嫌を取っていた。斯うしていれば大抵は無難だが、それでも時々何の理由もなく、通りすがりに大切の頭をコツリと打《や》って行くこともある。
 外《そと》は面白いが、勘ちゃんが厭だ。と云って、内でお祖母《ばあ》さんと睨《にら》めッこも詰らない。そこで、お隣のお光《みっ》ちゃんにお向うのお芳《よっ》ちゃんを呼んで来る。お光《みっ》ちゃんは外歯《そっぱ》のお出額《でこ》で河童のような児《こ》だったけれど、お芳《よっ》ちゃんは色白の鈴を張ったような眼で、好児《いいこ》だった。私は飯事《ままごと》でお芳《よっ》ちゃんの旦那様になるのが大好だった。お烟草盆《たばこぼん》のお芳《よっ》ちゃんが真面目腐って、貴方《あなた》、御飯をお上ンなさいなと云う。アイと私が返事をする。アイじゃ可笑《おかし》いわ
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