ス。」
 これで一通り訓戒が済んで、後《あと》は自慢話になった。先生も法律は晩学で、最初は如何にも辛かったが、その辛いのを辛抱したお蔭で、今日《こんにち》では内務の一等属、何とかの係長たることを得たのだという話を長々と聴かされて、私は痺《しびれ》が切れて、耐《こた》え切れなくなって、泣出しそうだった。
 辛《やッ》と放免されて、暗黒《くらやみ》を手探りで長四畳へ帰って来ると、下女が薄暗い豆ランプを持って来て、お前さん床を敷《と》ったら忘れずに消すのですよと、朋輩にでも言うように、粗率《ぞんざい》に言置いて行って了った。
 国を出る時、此家《ここ》の伯父さんの先生は、昔困っていた時、家《うち》で散々世話をして遣った人だから、悪いようにはして呉れまいと、父は言った。私も矢張《やッぱり》其気で便《たよ》って来たのだが、便《たよ》って来てみれば事毎に案外で、ああ、何だか妙な気持ちがする。
 私は家《うち》が恋しくなった……

          三十一

 私は翌日早速|錦町《にしきちょう》の某私立法律学校へ入学の手続を済ませて、其処の生徒になって、珍らしい中《うち》は熱心に勉強もしたが、其中《そのうち》に段々怠り勝になった。それには種々《いろいろ》原因もあるが、第一の原因は家《うち》の用が多いからで。
 伯父さんの先生――私は口惜《くや》しいから斯ういう――伯父さんの先生は、用といっても大した事じゃないと言った。成程一命に関《かか》わるような大した事ではないが、併し其大した事でない用が間断《しっきり》なく有る。まず朝は下女と殆ど同時に覚《おこ》されて、雨戸を明けさせられる。伯母さんの奥さんと分担で座敷の掃除をさせられる。其が済むと、今度は私一人の専任で庭から、玄関先から、門前から、勝手口まで掃《は》かせられる。少しでも塵芥《ごみ》が残っていると、掃直《はきなお》しを命ぜられるから、丁寧に奇麗に掃《は》かなきゃならん。是が中々の大役の上に、時々其処らの草むしり迄やらされて萎靡《がっかり》する事もある。
 朝飯《あさめし》を済せて伯父さんの先生の出勤を見送って了うと、学校は午後だから、其迄は身体に一寸《ちょっと》隙《すき》が出来る。其暇《そのひま》に自分の勉強をするのだが、其さえ時々急ぎの謄写物《とうしゃもの》など吩咐《いいつか》って全潰《まるつぶれ》になる。
 夕方学校から
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