tらっていた男だが、不思議な事には、此時此手紙を読んで吃驚《びっくり》すると同時に、今夜こそはと奮《いき》り立っていた気が忽ち萎《な》えて、父母《ちちはは》が切《しき》りに懐かしく、何だか泣きたいような気持になって、儘になるなら直《すぐ》にも発《た》ちたかったが、こうなると当惑するのは、今日の観劇の費用が思ったよりも嵩《かさ》んで、元より幾何《いくばく》もなかった懐中が甚だ軽くなっている事だ。父が病気に掛ってから、度々送金を迫られても、不覚《つい》怠《おこた》っていたのだから、家《うち》の都合も嘸《さ》ぞ悪かろう。今度こそは多少の金を持って帰らんでは、如何《いか》に親子の間でも、母に対しても面目《めんぼく》ない。といって、お糸さんに迷ってから、散々無理を仕尽した今日此頃、もう一文《もん》の融通《ゆうずう》の余地もなく、又余裕もない。明日《あす》の朝二番か三番で是非|発《た》たなきゃならんがと、当惑の眼《まなこ》を閉じて床の中で凝《じっ》と考えていると、スウと音を偸《ぬす》んで障子を明ける者が有るから、眼を開《あ》いて見ると、先刻《さっき》迄|待憧《まちこが》れて今は忘れているお糸さんだ。窃《そっ》と覗込んで、小声で、「もうお休みなすったの?」といいながら、中へ入って又|窃《そっ》と跡を閉《し》めたのは、十二時過で遠慮するのだったかも知れぬが、私は一寸《ちょっと》妙に思った。
「どうも有難うございました」、とのめるように私の床の側《そば》に坐りながら、「好かったわねえ」、と私と顔を看合わせて微笑《にッこり》した。
 今日は風呂日だから、帰ってから湯へ入ったと見えて、目立たぬ程に薄《うッす》りと化粧《けわ》っている。寝衣《ねまき》か何か、袷《あわせ》に白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》を襲《かさ》ねたのを着て、扱《しごき》をグルグル巻にし、上に不断の羽織をはおっている秩序《しどけ》ない姿も艶《なま》めかしくて、此人には調和《うつり》が好《い》い。
「一本頂戴よ」、といいながら、枕元の机の上の巻烟草《まきたばこ》を取ろうとして、袂《たもと》を啣《くわ》えて及腰《およびごし》に手を伸ばす時、仰向《あおむ》きに臥《ね》ている私の眼の前に、雪を欺《あざむ》く二の腕が近々と見えて、懐かしい女の香《か》が芬《ぷん》とする。
「何だかまだ芝居に居るような気がして相済まないけど」、とお糸さ
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