ネかった。私は又嬉しくなって、此様《こん》な事なら最《もっ》と早く敬意を表すれば好かったと思った。
お糸さんは床を敷《と》って了うと、火鉢の側《そば》へ膝行《いざ》り寄って火を直しながら、
「本当《ほんと》に嘸《さぞ》御不自由でございましょうねえ、皆《みんな》気の附かない者ばかりの寄合《よりあい》なんですから。どうぞ何なりと御遠慮なく仰有《おっしゃ》って下さいまし。然う申しちゃ何ですけど、他《ほか》のお客様は随分ツケツケお小言を仰《おっ》しゃいますけど、一番さん(私の事だ)は御遠慮深くッて何にも仰《おっ》しゃらないから、ああいうお客様は余計気を附けて上げなきゃ不好《いけない》。本当《ほんと》にお客様が皆《みんな》一番さんのようだと、下宿屋も如何様《どんな》に助かるか知れないッてね、始終《しょっちゅう》下でもお噂を申して居《お》るンでございますよ……」
無論半襟二掛の効能《ききめ》とは迂濶《うかつ》の私にも知れた。平生の私の主義から言えば、お糸さんは卑劣だと謂わなければならんのに、何故だか私は左程にも思わないで、唯お糸さんの媚《こ》びて呉れるのが嬉しかった。
小女《ちび》がバタバタと駈けて来て、卒然《いきなり》障子をガラッと開けて、
「あの八番さんで、御用が済んだら、お糸さんに入らッしゃいッて。」
「何だい?」
小女《ちび》が生意気になけ無しの鼻を指して、
「これ……」
「そう。」
お糸さんは挨拶も※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]々《そこそこ》に私の部屋を出て行ったが、ツイ其処らで立止った様子で、
「今お帰り? 大変|御緩《ごゆっく》りでしたね。」
帰って来たのは隣の俗物らしく、其声で何だか言うと、又お糸さんの声で、
「あら、本当《ほんと》? 本当《ほんと》に買って来て下すったの? まあ、嬉しいこと! だから、貴方《あなた》は実《じつ》が有るッていうンだよ……」
してみると、お糸さんに対《むか》って敬意を表するのは私ばかりでないと見える。
五十六
私がお糸さんに接近する目的は人生研究の為で、表面上性慾問題とは関係はなかった。が、お糸さんも活物《いきもの》、私も死んだ思想に捉われていたけれど、矢張《やっぱり》活物《いきもの》だ。活物《いきもの》同志が活きた世界で顔を合せれば、直ぐ其処に人生の諸要素が相轢《あいれき》してハ
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