B能《よ》く料理を味わう者を料理通という。能《よ》く人生を味わう者を芸術家という。料理通は料理人でない如く、能《よ》く人生を味わう芸術家は能《よ》く人生を経理せんでも差支えはない。
道徳は人生を経理するに必要だろうけれど、人生の真味を味わう助《たすけ》にはならぬ。芸術と道徳とは竟《つい》に没交渉である。
是が私の見解であった。浅薄はさて置いて、此様《こん》な事を言って、始終言葉に転ぜられていたから、私は却て普通人よりも人生を観得なかったのである。
四十九
私の文学上の意見も大業だが、文学については先《ま》あ其様《そん》な他愛のない事を思って、浮れる積《つもり》もなく浮れていた。で、私の意見のようにすると、味《あじわ》わるるものは人生で、味わうものは作家の主観であるから、作家の主観の精粗に由て人生を味わう程度に深浅の別が生ずる。是《ここ》に於て作家は如何《どう》しても其主観を修養しなければならん事になる。
私は行々《ゆくゆく》は大文豪になりたいが一生の願《ねがい》だから、大《おおい》に人生に触れて主観の修養をしなければならん。が、漠然人生に触れるの主観を修養するのと言ってる中《うち》は、意味が能《よ》く分っているようでも、愈《いよいよ》実行する段になると、一寸《ちょっと》まごつく。何から何如《どう》手を着けて好《い》いか分らない。政治や実業は人生の一現象でも有ろうけれど、其様《そん》な物に大した味《あじわい》はない筈である。といって教育でもないし、文壇は始終触れているし、まあ、社会現象が一番面白そうだ。面白いというのは其処に人生の味が濃《こまや》かに味わわれる謂《いい》である。社会現象の中《うち》でも就中《なかんずく》男女の関係が最も面白そうだが、其面白味を十分に味わおうとするには、自分で実験しなければならん。それには一寸《ちょっと》相手に困る。人の恋をするのを傍観するのは、宛《あだか》も人が天麩羅《てんぷら》を喰ってるのを観て其味を想像するようなものではあるけれど、実験の出来ぬ中《うち》は傍観して満足するより外《ほか》仕方がない。が、新聞の記事では輪廓だけで内容が分らない。内容を知るには、恋する男女の間に割込んで、親しく其恋を観察するに限るが、恋する男女が其処らに落《おッ》こちても居ない。すると、当分まず恋の可能《ポッシビリチイ》を持
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