、私が両手に豆捩《まめねじ》を持って雀躍《こおどり》して喜ぶ顔を、祖母が眺めてほくほくする事になって了う。
 斯うして私の小さいけれど際限の無い慾が、毎《いつ》も祖母を透《とお》して遂げられる。それは子供心にも薄々|了解《のみこめ》るから、自然家内中で私の一番|好《すき》なのは祖母で、お祖母《ばあ》さんお祖母さんと跡を慕う。何となく祖母を味方のように思っているから、祖母が内に居る時は、私は散々我儘を言って、悪たれて、仕度三昧《したいざんまい》を仕散らすが、留守だと、萎靡《いじけ》るのではないが、余程《よっぽど》温順《おとな》しくなる。
 其癖《そのくせ》私は祖母を小馬鹿にしていた。何となく奥底が見透《みすか》されるから、祖母が何と言ったって、些《ちッ》とも可怕《こわ》くない。
 それを又勝気の祖母が何とも思っていない。反《かえっ》て馬鹿にされるのが嬉しいように、人が来ると、其話をして、憎い奴でございますと言って、ほくほくしている。
 両親も其は同じ事で、散々私に悩まされながら、矢張《やっぱり》何とも思っていない。唯影でお祖母《ばあ》さんにも困ると、お祖母《ばあ》さんの愚痴を零《こぼ》すばかり。
 私は何方《どッち》へ廻っても、矢張《やッぱり》好《い》い児《こ》だ。

          五

 親馬鹿と一口に言うけれど、親の馬鹿程有難い物はない。祖母は勿論、両親とても決して馬鹿ではなかったが、その馬鹿でなかった人達が、私の為には馬鹿になって呉れた。勿体ないと言わずには居られない。
 私に何の取得がある? 親が身の油を絞って獲た金を、私の教育に惜気《おしげ》もなく掛けて呉れたのは、私を天晴《あッぱ》れ一人前の男に仕立てたいが為であったろうけれど、私は今|眇《びょう》たる腰弁当で、浮世の片影《かたかげ》に潜んでいる。私が生きていたとて、世に寸益もなければ、死んだとて、妻子の外に損を受ける者もない。世間から見れば有っても無くても好《い》い余計な人間だ。財産なり、学問なり、技能なり、何か人より余計に持っている人は、其余計に持っている物を挟《さしはさ》んで、傲然として空嘯《そらうそぶ》いていても、人は皆其|足下《そっか》に平伏する。私のように何も無い者は、生活に疲れて路傍《みちばた》に倒れて居ても、誰一人《たれひとり》振向いて見ても呉れない。皆|素通《すどおり》して※[#「勹
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