、事は能《よ》く解らなかったが、側《そば》に焼芋が山程盆に載っていたから、夫で察して、礼を言って、一寸《ちょっと》躊躇したが、思切って中《うち》へ入って了った。
 雪江さんはお薩《さつ》が大好物だった。私は好物ではないが、何故だか年中空腹を感じているから、食後だって十切位《ときれぐらい》はしてやる男だが、此時ばかりは芋どころでなかった。切《しきり》に勧められるけれど、難有《ありがと》う難有うとばかり言ってて、手を出さなかった。何だかもう赫《かっ》となって、夢中で、何だか霧にでも包まれたような心持で、是から先は如何《どう》なる事やら、方角が分らなくなったから、彷徨《うろうろ》していると、
「貴方《あなた》は遠慮深いのねえ。男ッて然う遠慮するもンじゃなくッてよ。」
 と何にも知らぬ雪江さんが焼芋の盆を突付ける。私は今|其処《そこ》どころじゃないのだが、手を出さぬ訳にも行かなくなって手を出すと、生憎《あいにく》手先がぶるぶると震えやがる。
「如何《どう》して其様《そんな》に震えるの?」
 と雪江さんが不審そうに面《かお》を視る。私は愈《いよいよ》狼狽して、又|真紅《まっか》になって、何だか訳の分らぬ事を口の中《うち》で言って、周章《あわ》てて頬張ると、
「あら、皮ごと喰べて……皮は取った方が好《い》いわ。」
「なに、構わんです」、と仕方が無いから、皮ぐるみムシャムシャ喰《や》りながら、「何は……何処へ入《い》らしッたンです?」
「吉田さんへ」、と雪江さんは皮を剥《む》く手を止《と》めて、「私《あたし》些《ちっ》とも知らなかったけど、今晩が春子さんのお輿入《こしいれ》なんですって。そら、媒人《なこうど》でしょう家《うち》は? だから、阿父《とう》さんも阿母《かあ》さんも早めに行ってないと不好《いけない》って、先刻《さっき》出て行ったのよ。」
 これで漸く合点が行ったが、それよりも爰《ここ》に一寸《ちょっと》吹聴《ふいちょう》して置かなきゃならん事がある。私は是より先|春色梅暦《しゅんしょくうめごよみ》という書物を読んだ。一体小説が好きで、国に居る時分から軍記物や仇討物は耽読《たんどく》していたが、まだ人情本という面白い物の有ることを知らなかった。これの知り初めが即ち此|春色梅暦《しゅんしょくうめごよみ》で、神田に下宿している友達の処から、松陰伝と一緒に借りて来て始て読んだが
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