sさぞ》苦々しい事であったろう。兎も角もこうして松陰先生大の崇拝で、留魂録《りゅうこんろく》は暗誦《あんしょう》していた程だったが、しかし此松陰崇拝が、不思議な事には、些《ちっ》とも雪江さんを想う邪魔にならなかったから、其時分私の眼中は天下唯松陰先生と雪江さんと有るのみだった。
で、いつも学校の帰りには此二人の事を考え考え帰るのだが、或日――たしか土曜日だったかと思う、土曜日は学校も早仕舞なので、三時頃にそうして二人の事を考えながら帰って見ると、主人夫婦はいつも茶の間だのに、其日は茶の間に居ない。書斎かと思って書斎へ行こうとすると、椽側の尽頭《はずれ》の雪江さんの部屋で、雪江さんの声で、
「誰?」
という。私は思わず立止って、
「私《わたくし》です。」
「古屋さん?」
という声と共に、部屋の障子が颯《さッ》と開《あ》いて、雪江さんが面《かお》だけ出して、
「今日は皆《みんな》留守よ。」
「え?」と私は耳が信ぜられなかった。
「阿父《とう》さんも阿母《かあ》さんもね、先刻《さっき》出懸けてよ。」
「そうですか」、と何気なく言ったが、内々《ないない》は何だか急に嬉しくなって来て、
「松は?」
「松はお湯《ゆう》へ行って未だ帰って来ないの。」
「じゃ、貴嬢《あなた》お一人?」
「ええ……一寸《ちょっと》入《い》らッしゃいよ、此処へ。好《い》い物があるから。」
と手招《てまねぎ》をする。斯うなると、松陰先生崇拝の私もガタガタと震い出した。
三十六
前にも断って置いた通り、私は曾て真劒に雪江さんを如何《どう》かしようと思った事はない。それは決して無い。度々怪しからん事を想って、人知れず其を楽しんで居たのは事実だけれど、勧業債券を買った人が当籤《とうせん》せぬ先から胸算用をする格で、ほんの妄想《ぼうそう》だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸《ちょっと》入《い》らッしゃいよ、と手招ぎされて、驚破《すわ》こそと思う拍子に、自然と体の震い出したのは、即ち武者震いだ。千載一遇の好機会、逸《はず》してなるものか、というような気になって、必死になって武者震いを喰止めて、何喰わぬ顔をして、呼ばれる儘に雪江さんの部屋の前へ行くと、屈《こご》んでいた雪江さんが、其時|勃然《むっくり》面《かお》を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張っていて、私の面《かお》を見て何だか言う。言
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