モしたら、私は屹度《きっと》、失敬な、惚なんぞするものか、と真紅《まッか》になって怒《おこ》ったに違いない。が、実は惚れたとも思わぬ中《うち》に、いつか自分にも内々で、こッそり、次序《しだら》なく惚れて了っていたのだ。
惚れた証拠には、雪江さんが留守だと、何となく帰りが待たれる。家《うち》に居る時には心が藻脱《もぬ》けて雪江さんの身に添うてでも居るように、奥と玄関脇と離れていても、雪江さんが、今|何《ど》の座敷で何をしているかは大抵分る。
雪江さんは宵ッ張だから、朝は大層|眠《ねむ》たがる。阿母《かあ》さんに度々起されて、しどけない寝衣姿《ねまきすがた》で、脛《はぎ》の露わになるのも気にせず、眠そうな面《かお》をしてふらふらと部屋を出て来て、指の先で無理に眼を押開け、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》の裏を赤く反して見せて、「斯うして居ないと、附着《くッつ》いて了ってよ」、といって皆を笑わせる。
雪江さんは一ツ橋のさる学校へ通っていたから、朝飯《あさはん》を済ませると、急いで支度をして出て行く。髪は常《いつ》も束髪だったが、履物《はきもの》は背《せい》が低いからッて、高い木履《ぽっくり》を好いて穿《は》いていた。紫の包を抱えて、長い柄の蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って出て行く後姿が私は好くって堪《な》らなかったから、いつも其時刻には何喰わぬ顔をして部屋の窓から外を見ていると、雪江さんは大抵は見られているとは気が附かずに、一寸《ちょっと》お尻を撫《な》でてから、髪を壊《こわ》すまいと、低く屈《こご》んで徐《そっ》と門を潜《くぐ》って出て行くが、時とすると潜る前にヒョイと後《うしろ》を振向いて私と顔を看合せる事がある。そうすると、雪江さんは奇麗な歯並をチラリと見せて、何の意味もなく莞爾《にっこり》する。私は疾《とう》から出そうな莞爾《にっこり》を顔の何処へか押込めて、強いて真面目を作っているのだから、雪江さんの笑顔に誘われると、耐《こら》え切れなくなって不覚《つい》矢張《やっぱり》莞爾《にっこり》する。こうして莞爾《にっこり》に対するに莞爾《にっこり》を以てするのを一日の楽みにして、其をせぬ日は何となく物足りなく思っていた。いや、罪の無い話さ。
三十三
午後はいつも私が学校へ行った留守に、雪江さんが帰って来るので、掛違って
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