ならお勢の居ない時だ、チョッ今言ッてしまおう」ト思い決《さだ》めて今|将《まさ》に口を開かんとする……折しも縁側にパタパタと跫音《あしおと》がして、スラリと背後《うしろ》の障子が開《あ》く、振反《ふりかえ》ッて見れば……お勢で。年は鬼もという十八の娘盛り、瓜実顔《うりざねがお》で富士額、生死《いきしに》を含む眼元の塩にピンとはねた眉《まゆ》で力味《りきみ》を付け、壺々口《つぼつぼぐち》の緊笑《しめわら》いにも愛嬌《あいきょう》をくくんで無暗《むやみ》には滴《こぼ》さぬほどのさび、背《せい》はスラリとして風に揺《ゆら》めく女郎花《おみなえし》の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか、慾にはもうすこし生際《はえぎわ》と襟足《えりあし》とを善くして貰《もら》いたいが、何《な》にしても七難を隠くすという雪白の羽二重肌、浅黒い親には似ぬ鬼子《おにっこ》でない天人娘。艶《つや》やかな黒髪を惜気もなくグッと引詰《ひっつ》めての束髪、薔薇《ばら》の花挿頭《はなかんざし》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》したばかりで臙脂《べに》も甞《な》めねば鉛華《おしろい》も施《つ》けず、衣服《みなり》とても糸織の袷衣《あわせ》に友禅と紫繻子の腹合せの帯か何かでさして取繕いもせぬが、故意《わざ》とならぬ眺《ながめ》はまた格別なもので、火をくれて枝を撓《た》わめた作花《つくりばな》の厭味《いやみ》のある色の及ぶところでない。衣透姫《そとおりひめ》に小町の衣《ころも》を懸けたという文三の品題《みたて》は、それは惚《ほ》れた慾眼の贔負沙汰《ひいきざた》かも知れないが、とにもかくにも十人並優れて美くしい。坐舗へ這入りざまに文三と顔を見合わして莞然《にっこり》、チョイと会釈をして摺足《すりあし》でズーと火鉢の側《そば》まで参り、温藉《しとやか》に坐に着く。
お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、咽元《のどもと》まで込み上げた免職の二字を鵜呑《うの》みにして何|喰《く》わぬ顔色《がんしょく》、肚の裏《うち》で「もうすこし経《た》ッてから」
「母親《おっか》さん、咽が涸《かわ》いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ」
「アイヨ」
トいってお政は茶箪笥《ちゃだんす》を覗《のぞ》き、
「オヤオヤ茶碗が皆《みんな》汚れてる……鍋」
ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯《そらうそぶ》いた鼻の端《さき》へ突出された汚穢物《よごれもの》を受取り、振栄《ふりばえ》のあるお尻《いど》を振立てて却退《ひきさが》る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂《うわさ》で、母子《おやこ》二《ふたつ》の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴《ふいちょう》したくも言出す潮《しお》がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄《はなし》を聞て空《むな》しく時刻を移す内、説話《はなし》は漸くに清元《きよもと》長唄《ながうた》の優劣論に移る。
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好《いい》サ」
「長唄も岡安《おかやす》ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷《よつや》で始めて逢《お》うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」
ト中音で口癖の清元を唄《うた》ッてケロリとして
「いいワ」
「その通り品格がないから嫌《きら》い」
「また始まッた、ヘン跳馬《じゃじゃうま》じゃアあるまいし、万古に品々《しんしん》も五月蠅《うるさ》い」
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお人柄《しとがら》なら、煮込《にこ》みのおでんなんぞを喰《たべ》たいといわないがいい」
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ一昨日《おとつい》の晩いいました」
「嘘《うそ》ばっかし」
トハ言ッたが大《おおき》にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて
「アノ今日出懸けに母親さんの所《とこ》から郵便が着たッけが、お落掌《うけとり》か」
「ア真《ほん》にそうでしたッけ、さっぱり忘却《わすれ》ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜《よろ》しく申上げろと申ことで」
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時《いつ》もお異《かわん》なすったことも無くッて」
「ハイ、お蔭《かげ》さまと丈夫だそうで」
「それはマア何よりの事《こっ》た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」
「ハイ、指ばかり屈《おっ》ていると申てよこしましたが……」
「そうだろうてネ、可愛《かわい》い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処《ど
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