《み》る蒼空《あおぞら》には、余残《なごり》の色も何時しか消え失《う》せて、今は一面の青海原、星さえ所斑《ところまだら》に燦《きらめ》き出《い》でて殆《と》んと交睫《まばたき》をするような真似《まね》をしている。今しがたまで見えた隣家の前栽《せんざい》も、蒼然《そうぜん》たる夜色に偸《ぬす》まれて、そよ吹く小夜嵐《さよあらし》に立樹の所在《ありか》を知るほどの闇《くら》さ。デモ土蔵の白壁はさすがに白《しろい》だけに、見透かせば見透かされる……サッと軒端《のきば》近くに羽音がする、回首《ふりかえ》ッて観る……何も眼《まなこ》に遮《さえぎ》るものとてはなく、唯《ただ》もう薄闇《うすぐら》い而已《のみ》。
心ない身も秋の夕暮には哀《あわれ》を知るが習い、況《ま》して文三は糸目の切れた奴凧《やっこだこ》の身の上、その時々の風次第で落着先《おちつくさき》は籬《まがき》の梅か物干の竿《さお》か、見極めの附かぬところが浮世とは言いながら、父親が没してから全《まる》十年、生死《いきじに》の海のうやつらやの高波に揺られ揺られて辛《かろう》じて泳出《およぎいだ》した官海もやはり波風の静まる間がないことゆえ、どうせ一度は捨小舟《すておぶね》の寄辺ない身に成ろうも知れぬと兼て覚悟をして見ても、其処《そこ》が凡夫《ぼんぶ》のかなしさで、危《あやうき》に慣れて見れば苦にもならず宛《あて》に成らぬ事を宛にして、文三は今歳の暮にはお袋を引取ッて、チト老楽《おいらく》をさせずばなるまい、国へ帰えると言ッてもまさかに素手でも往《い》かれまい、親類の所への土産は何にしよう、「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で弾《はじ》いた算盤《そろばん》の桁《けた》は合いながらも、とかく合いかねるは人の身のつばめ、今まで見ていた廬生《ろせい》の夢も一|炊《すい》の間に覚め果てて「アアまた情ない身の上になッたかナア……」
俄《にわか》にパッと西の方《かた》が明るくなッた。見懸けた夢をそのままに、文三が振返ッて視遣《みや》る向うは隣家の二階、戸を繰り忘れたものか、まだ障子のままで人影が射《さ》している……スルトその人影が見る間にムクムクと膨れ出して、好加減《よいかげん》の怪物となる……パッと消失せてしまッた跡はまた常闇《とこやみ》。文三はホッと吐息を吻《つい》て、顧みて我家《わがいえ》の中庭を瞰下《みお》ろせば、所狭《ところせ》きまで植駢《うえなら》べた艸花《くさばな》立樹《たちき》なぞが、詫《わび》し気に啼《な》く虫の音を包んで、黯黒《くらやみ》の中《うち》からヌッと半身を捉出《ぬきだ》して、硝子張《ガラスばり》の障子を漏れる火影《ほかげ》を受けているところは、家内《やうち》を覘《うかが》う曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立《こだち》を揉《も》む夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然《ぶるぶる》と身震をして起揚《たちあが》り、居間へ這入《はい》ッて手探りで洋燈《ランプ》を点《とぼ》し、立膝《たてひざ》の上に両手を重ねて、何をともなく目守《みつめ》たまま暫《しば》らくは唯|茫然《ぼんやり》……不図手近かに在ッた薬鑵《やかん》の白湯《さゆ》を茶碗《ちゃわん》に汲取《くみと》りて、一息にグッと飲乾し、肘《ひじ》を枕《まくら》に横に倒れて、天井に円く映る洋燈《ランプ》の火燈《ほかげ》を目守めながら、莞爾《にっこ》と片頬《かたほ》に微笑《えみ》を含んだが、開《あい》た口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処《いずく》からともなくまた愁《うれい》の色が顔に顕《あら》われて参ッた。
「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん事《こっ》たから、今夜にも帰ッたら、断念《おもいき》ッて言ッてしまおうかしらん。さぞ叔母が厭《いや》な面《かお》をする事《こっ》たろうナア……眼に見えるようだ……しかしそんな事を苦にしていた分には埒《らち》が明かない、何にもこれが金銭を借りようというではなし、毫《すこ》しも耻《はず》かしい事はない、チョッ今夜言ッてしまおう……だが……お勢がいては言い難《にく》いナ。若しヒョット彼《あれ》の前で厭味なんぞを言われちゃア困る。これは何んでも居ない時を見て言う事《こっ》た。いない……時を……見……何故《なぜ》、何故言難い、苟《いやしく》も男児たる者が零落したのを耻ずるとは何んだ、そんな小胆な、糞《くそ》ッ今夜言ッてしまおう。それは勿論《もちろん》彼娘《あれ》だッて口へ出してこそ言わないが何んでも来年の春を楽しみにしているらしいから、今|唐突《だしぬけ》に免職になッたと聞いたら定めて落胆するだろう。しかし落胆したからと言ッて心変りをするようなそんな浮薄な婦人《おんな》じゃアなし、かつ通常の婦女子と違ッて教育も有ることだから、大丈夫そんな気遣いはない。それは決《け》
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