概略《あらまし》はまず箇様《こう》で。
 先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途《いちず》に叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後|沈着《おちつ》いて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。
 成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない、文三の感情、思想を忖度《そんたく》し得ないのも勿論の事では有るが、シカシ菽麦《しゅくばく》を弁ぜぬ程の痴女子《ちじょし》でもなければ自家独得の識見をも保着《ほうちゃく》している、論事矩《ロジック》をも保着している、処世の法をも保着している。それでいて何故アア何の道理も無く何の理由もなく、唯文三が免職に成ッたと云うばかりで、自身も恐らくは無理と知り宛《つつ》無理を陳《なら》べて一人で立腹して、また一人で立腹したとてまた一人で立腹して、罪も咎《とが》も無い文三に手を杖《つ》かして謝罪《わび》さしたので有ろう。お勢を嫁《か》するのが厭《いや》になってと或時《あのとき》は思いはしたようなものの、考えて見ればそれも可笑《おか》しい。二三|分時《ぷんじ》前までは文三は我女《わがむすめ》の夫、我女は文三の妻と思詰めていた者が、免職と聞くより早くガラリ気が渝《かわ》ッて、俄《にわか》に配合《めあわ》せるのが厭に成ッて、急拵《きゅうごしらえ》の愛想尽《あいそづ》かしを陳立《ならべた》てて、故意に文三に立腹さしてそして娘と手を切らせようとした……どうも可笑しい。
 こうした疑念が起ッたので、文三がまた叔母の言草、悔しそうな言様、ジレッタそうな顔色を一々漏らさず憶起《おもいおこ》して、さらに出直おして思惟《しゆい》して見て、文三は遂《つい》に昨日《きのう》の非を覚《さと》ッた。
 叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽みにしていたに相違ない。来年の春を心待に待ていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてと私《ひそか》に胸算用をしていたに相違ない。それが文三が免職に成ッたばかりでガラリト宛《あて》が外れたので、それで失望したに相違ない。凡《およ》そ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言艸《いいぐさ》を愛想尽《あいそづ》かしと聞取ッたのは全く此方《こちら》の僻耳《ひがみみ》で、或は愚痴で有ッたかも知れん」ト云う所に文三気が附いた。
 こう気が附《つい》て見ると文三は幾分か恨《うらみ》が晴れた。叔母がそう憎くはなくなった、イヤ寧《むし》ろ叔母に対して気の毒に成ッて来た。文三の今我《こんが》は故吾《こご》でない、シカシお政の故吾も今我でない。
 悶着《もんちゃく》以来まだ五日にもならぬに、お政はガラリその容子《ようす》を一変した。勿論以前とてもナニモ非常に文三を親愛していた、手車に乗せて下へも措かぬようにしていたト云うでは無いが、ともかくも以前は、チョイと顔を見る眼元、チョイと物を云う口元に、真似て真似のならぬ一種の和気を帯びていたが、この頃は眼中には雲を懸けて口元には苦笑《にがわらい》を含んでいる。以前は言事がさらさらとしていて厭味気《いやみけ》が無かッたが、この頃は言葉に針を含めば聞て耳が痛くなる。以前は人我《にんが》の隔歴が無かッたが、この頃は全く他人にする。霽顔《せいがん》を見せた事も無い、温語をきいた事も無い。物を言懸ければ聞えぬ風《ふり》をする事も有り、気に喰わぬ事が有れば目を側《そばだ》てて疾視付《にらみつ》ける事も有り、要するに可笑しな処置振りをして見せる。免職が種の悶着はここに至ッて、沍《い》ててかじけて凝結し出した。
 文三は篤実温厚な男、仮令《よし》その人と為《な》りはどう有ろうとも叔母は叔母、有恩《うおん》の人に相違ないから、尊尚親愛して水乳《すいにゅう》の如くシックリと和合したいとこそ願え、決して乖背《かいはい》し※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]離《きり》したいとは願わないようなものの、心は境に随《したが》ッてその相を顕《げん》ずるとかで、叔母にこう仕向けられて見ると万更好い心地もしない。好い心地もしなければツイ不吉な顔もしたくなる。が其処《そこ》は篤実温厚だけに、何時も思返してジッと辛抱している。蓋《けだ》し文三の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理、親の事ならそれも苦労になろう。人世の困難に遭遇《であっ》て、独りで苦悩して独りで切抜けると云うは俊傑《すぐれもの》の為《す》る事、並《なみ》や通途《つうず》の者ならばそうはいかぬがち。自心に苦悩が有る時は、必ずその由来する所を自身に求めずして他人に求める。求めて得なければ天命に帰してしまい、求めて得《う》れば則《すなわ》ちその人を※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]嫉《ぼうしつ》する。そうでもしなければ自《みずか》ら慰める事が出来ない。「叔母もそれでこう辛《
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