を見送ッて文三は吻《ほっ》と溜息《ためいき》を吐《つ》いて、
「ますます言難《いいにく》い」
 一時間程を経て文三は漸《ようや》く寐支度をして褥《とこ》へは這入《はい》ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去《こしかた》将来《ゆくすえ》を思い回《めぐ》らせば回らすほど、尚お気が冴《さえ》て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊《きび》しく両眼を閉じて眠入《ねい》ッた風《ふり》をして見ても自ら欺《あざむ》くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻《つ》きながら眠らずして夢を見ている内に、一番|鶏《どり》が唱《うた》い二番鶏が唱い、漸く暁《あけがた》近くなる。
「寧《いっ》そ今夜《こよい》はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額《あたま》が乱れだして、今まで眼前に隠見《ちらつい》ていた母親の白髪首《しらがくび》に斑《まばら》な黒髯《くろひげ》が生えて……課長の首になる、そのまた恐《こわ》らしい髯首が暫《しば》らくの間眼まぐろしく水車《みずぐるま》の如くに廻転《まわっ》ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰《そうごう》が変ッて……何時の間にか薔薇《ばら》の花掻頭《はなかんざし》を挿《さ》して……お勢の……首……に……な……

     第五回 胸算《むなさん》違いから見一無法《けんいちむほう》は難題

 枕頭《まくらもと》で喚覚《よびさ》ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽《うろたえ》た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射《さ》している。「ヤレ寐過《ねすご》したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞《ふさ》がる……※[#「くさかんむり/不」、第3水準1−90−64]※[#「くさかんむり/(官−宀)」、第4水準2−86−5]《おんばこ》を振掛けられた死蟇《しにがいる》の身で、躍上《おどりあが》り、衣服を更《あらた》めて、夜の物を揚げあえず楊枝《ようじ》を口へ頬張《ほおば》り故手拭《ふるてぬぐい》を前帯に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》んで、周章《あわて》て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾《はや》く為《し》ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角《かど》はないが、文三の胸にはぎっくり応《こた》えて返答にも迷惑《
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