濶《うかつ》に手は出さんが、罠《わな》のと知りつつ、油鼠《あぶらねずみ》の側《そば》を去られん老狐《ふるぎつね》の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨《にら》んでは舌舐《したねぶ》りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚《おろか》で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄《みがら》の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意《こころ》を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている※[#白ゴマ点、210−12]しかも互に見抜れていると略《ほ》ぼ心附いている。それゆえに、故《ことさ》らに無心な顔を作り、思慮の無い言《こと》を云い、互に瞞着《まんちゃく》しようと力《つと》めあうものの、しかし、双方共力は牛角《ごかく》のしたたかものゆえ、優《まさり》もせず、劣《おとり》もせず、挑《いど》み疲れて今はすこし睨合《にらみあい》の姿となった。総てこれ等の動静《ようす》は文三も略《ほ》ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処《お》きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍《れき》して出来《でか》した、軽く、浮いた、汚《けがら》わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑《たかわらい》をする、その様子を見ると、手を束《つか》ねて安座していられなくなる。
お勢は今|甚《はなは》だしく迷っている、豕《いのこ》を抱《いだ》いて臭きを知らずとかで、境界《きょうがい》の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状《さま》を察するに、譬《たと》えば酒に酔ッた如くで、気は暴《あれ》ていても、心は妙に昧《くら》んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう※[#白ゴマ点、211−5]また徒《た》だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎《うと》くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘《いざな》われて言動|作息《さそく》するから、我《われ》にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮《あざや》いで見え、万物は美しく見え、人は皆|我一人《われいちにん》を愛して我一人のために働いているように見えよう※[#白ゴマ点、211−9]|若《も》し顔を皺《しか》めて溜息《ためいき》を吐《つ》く者が有れば、この世はこれほど住
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