は耳を聳《そばだ》てた。※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《いそが》わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段《はしごだん》の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然《ひっそ》として音沙汰《おとさた》をしなくなった。何となく来客でもある容子《ようす》。
高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静《しずま》ッて見るとサア容子が解らない。文三|些《すこ》し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可《よ》し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思付いた、イヤ憶出《おもいいだ》した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉《のど》が渇く。水を飲めば渇《かわき》が歇《と》まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故《ゆえ》に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々《さまざま》に分疏《いいわけ》をして、文三は遂《つい》に二階を降りた。
台所へ来て見ると、小洋燈《こランプ》が点《とぼ》しては有るがお鍋は居ない。皿|小鉢《こばち》の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣《つかい》にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語《ささや》く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊《ぬす》むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反《ふりかい》ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸《あけか》けた障子に掴《つか》まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯|此方《こっち》へ背を向けて立在《たたず》んだままで坐舗の裏《うち》を窺《のぞ》き込んでいる。
「チョイと茲処《ここ》へお出《い》で」
ト云うは慥《たしか》に昇の声。お勢はだらしもなく頭振《かぶ》りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯《いたずら》しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個《ほんと》か、其処《そこ》へ往《い》きましょうか」
ト、チョイと首を傾《かし》げた。
「ア、お出で、サア……
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