云う高笑いの声がする。耳を聳《そばだ》てて能《よ》く聞けば、昇の声もその中《うち》に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若《も》しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐《しき》りに胸が浪《なみ》だつ。暫《しば》らく鵠立《たたずん》でいて、度胸を据《す》えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色《がんしょく》をして、文三は縁側へ廻《めぐ》り出た。
奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉《はいばんろうぜき》と取散らしてある中に、昇が背なかに円《まろ》く切抜いた白紙《しらかみ》を張られてウロウロとして立ている、その傍《そば》にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々《ぷりぷり》しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽《たちま》ち後《うしろ》の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯《いたずら》をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共|敵手《あいて》だ。ドレまずこの肥満奴《ふとっちょ》から」
(鍋)「アラ私《わたくし》じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭《いや》ですよ……アラー御新造《ごしんぞ》さアん引[#「引」は小書き右寄せ]」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐《しき》りに「引掻《ひっかい》てお遣《や》りよ、引掻て」ト叫喚《わめ》く声もまた聞えた。
騒動《さわぎ》に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方《うしろ》を振向く途端に、バタバタと跫音《あしおと》がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当《つきあた》ッた。狼狽《あわて》た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所《とこ》に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処《どこ》ぞ痛めはしませんでしたか」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送《みおく》ッて文三は暫らく立在《たたずん》でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈《ランプ》を点じて机辺《つくえのほとり》に蹲踞《そんこ》してから、さて、
「実に淫哇《みだら》だ。叔母や本田は論ずるに
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