上の穿鑿、一は感情を以て感得する美術上の穿鑿是なり。
智識は素と感情の変形、俗に所謂智識感情とは、古参の感情新参の感情といえることなりなんぞと論じ出しては面倒臭く、結句|迷惑《まごつき》の種を蒔くようなもの。そこで使いなれた智識感情といえる語を用いていわんには、大凡世の中万端の事智識ばかりでもゆかねば又感情ばかりでも埒明かず。二二※[#小書き片仮名ン、237−11]が四といえることは智識でこそ合点すべけれど、能く人の言うことながら、清元《きよもと》は意気で常磐津《ときわず》は身《み》があるといえることは感情ならでは解《わか》らぬことなり。智識の眼より見るときは、清元にもあれ常磐津にもあれ凡そ唱歌といえるものは皆人間の声に調子を付けしものにて、其調子に身の有るものは常磐津となり意気なものは清元となると、先ず斯様に言わねばならぬ筈。されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかいうものは如何なもので御座る、拙者未だ之を食うたことは御座らぬと、剽軽者あって問を起したらんには、よしや富婁那《ふるな》の弁ありて一年三百六十日|饒舌《しゃべ》り続けに饒舌りしとて此返答は為切《しき》れまじ。さる無駄
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