る熱心、碁客が碁に対する凝り方、那様《そんな》のと同様で、自分の存在は九分九厘は遊んでいるのさ。真面目と云うならば、今迄の文学を破壊する心が、一度はどうしても出て来なくちゃならん。
 だから私の態度は……私は到底文学者じゃない。併し文学が児戯に類すると云う話と、今の話は別だよ。ただ批評をして見ると、一寸そんな事を云って見度くなるのだね。
 私は、まア、懐疑派《スケプチスト》だ。第一|論理《ロジック》という事が馬鹿々々しい。思想之法則《ローオブソート》は人間の頭に上る思想を整理《アドジャスト》するだけで、其が人間の真生活《リーヤルライフ》とどれだけの関係があるか。心理学上、人間は思想だけじゃない。精神活動力《メンタルエナージー》の現われ方には情もあれば知もあり意もある。それを思想だけ整理しても駄目じゃないか。成程、相等しき物は同一なりは尤もの次第で、他に考えようもないが、併し「何故《ホワイ》」という観念が出て来ると、私はそれに依頼されなくなる。心理学上の識覚《コンシアスネス》について云って見ても、識覚に上らぬ働き(アンダー、コンシアス、ウオーク)が幾らあるか知れぬ。反射的動作《レフレクチブアクション》なぞは其卑近の一例で、斯んな心持ちがする……云々と云う事も亦其働きだ。だから識覚の上にのぼって来る思想だけじゃ、到底人間全体の型は付けられない。じゃ、何うすりゃ好《い》いかと云うに、矢張《やっぱ》りそりゃ解らんよ。ただ手探りでやって見るんだ。要するに人間生きてる以上は思想を使うけれども、それは便宜の為に使うばかり。と云う考えだから、私の主義は思想《シンキング》の為《フォーワ》の思想《シンキング》でもなけりゃ芸術《アート》の為《フォーワ》の芸術《アート》でもなく、また科学《サイアンス》の為《フォーワ》の科学《サイアンス》でもない。人生の為の思想、人生の為の芸術、将《は》た人生の為の科学なのだ。
 人生《ライフ》、々々《ライフ》というが、人生《ライフ》た一体何だ。一個の想念《ノーション》じゃないか。今の文学者連中に聞き度いのは、よく人生に触れなきゃ不可《いかん》と云う、其人生だ。作物を読んで、こりゃ何となく身に浸みるとか、こりゃ何となく急所に当らぬとかの区別はある。併しそれが直ちに人生に触れる触れぬの標準となるんなら、大変軽卒のわけじゃないか。引緊った感を起させる、起させぬの別と、人生に触れる、触れぬとの間にゃ大なるギャップが有りゃせんか。私はどうも那様《そんな》気がするね。触れる云々は形容詞に過ぎんように思う。哲学上の見解から小説と人生との接触を見たんではないらしい。にも係《かかわ》らず其無意味のことに意味をつけて、やれ触れたの、やれ人生の真髄は斯うだのと云う。一片の形容詞が何時の間にか人生観と早変りをするのは、これ何とも以て不思議の至りさ。
 いや、何時のまにか私も大気焔を吐いて了って。先ずここらで御免を蒙ろう。
[#地付き](明治四十一年二月「文章世界」)



底本:「平凡・私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社
   1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集 第一、二、三、四、七巻」筑摩書房
   1984(昭和59)年11月〜1991(平成3)年11月
入力:長住由生
校正:もりみつじゅんじ
2000年5月4日公開
2006年3月27日修正
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