エスペラントの話
二葉亭四迷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)六《むづ》かしい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或日|巴里《パリ》から

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)シンキーウ※[#小書き片仮名ヰ、377−上−13]チ

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 エスペラントの話を聴きたい、よろしい、やりませう。しかし先月の事だ、彩雲閣から世界語といふ謂はゞエスペラントの手ほどきのやうなものを出した、あの本の例言に一通り書いて置いたが、読んで下すつたか。え、まだ読まない、困つたねえ、ぢや仕方がない、少し重複になるが、由来からお話しませう。と云つて何も六《むづ》かしい由来がある訳ではないが、詰《つま》り必要は発明の母ですね、エスペラントの発明されたのも畢竟《ひつきやう》必要に促されたに外ならんので、昔から世界通用語の必要は世界の人が皆感じてゐた、で、或は電信の符号のやうなものを作つて、○と見たら英人はサンと思へ、独逸人はゾンネと思へさ、ね、日本人なら太陽と読めと云つたやうな説もあつたが、そんな無理な事は到底行はれん。そこで、現在の各国に国語中一番弘く行はれてゐる英語とか仏語とかを採つて国際語にしたらといふ説も出たが、これも弊が多くて困る、成程《なるほど》英語が国際語になつたら英人には都合が好からうが夫《それ》では他の国民が迷惑する。仏語でも独逸語でも其通り、夫に各国人皆それ/″\に自尊心といふものが有るから、余所《よそ》の国の言葉が国際語になつては承知せん、何でも自分の国の言葉を採用しろと主張する、到底《とて》も相談の纏《まと》まる見込はない、そこで是はどうでも何か新しい言語《ことば》を作つて、それを一般に行ふより外手段はないとなつて諸国の学者は此方面でいろ/\工夫してゐる中に、千八百八十二年といへば明治十二[#「十二」に「ママ」の注記]年に当りますかね、其年にウォラビュックといふ新発明の国際語が出来た、かの符号などから視れば余程気が利《き》いてゐるけれど、惜しい事には余り人為的で、細工に過ぎてゐて之を人情風俗の違ふ各国人の口へ掛けたら、どうやら支離滅裂になつて了《しま》ひさうで、どうも申分が多いが、外に之に代るべきものもないから、一時は相応に研究する者もあつた、我国でも読売新聞が其文法を飜訳して附録にして出したことがあるから或は研究した人もあるでせう、しかし何国《どこ》でも未だ弘く行はれるといふ程に行かぬ中、千八百八十七年、即ち明治十八[#「十八」に「ママ」の注記]年になりますかな、其年の末に初めて所謂《いはゆる》エスペラントが世に公《おほやけ》にせられた。之は露国ワルソウの人だから詰《つま》り波蘭人《ポーランドじん》だ、其波蘭人のドクトル、ザメンコフといふ人の発明で、かのウォラビュックなどから視ると、遙かに自然的で無理が少ないから、忽《たちまち》の中に非常な勢で諸国に弘まつた。今では世界中で亜細亜や阿弗利加を除いては到る処にエスペラント協会が出来てゐて、其教科書は各国語に飜訳されてある。私が始て浦潮斯徳《ウラジオストック》でポストニコフといふ人からエスペラント語を習つた時にも、同氏から此語が欧米で盛に研究されつゝある話を聴いたことがあつたが、当時は仔細あつて私の心は彼に在つて此《こゝ》に無しといふ有様で、好加減《いゝかげん》に聞流して置いたが、其後北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日|巴里《パリ》から手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、戦争前帰朝すると間もなく又|墨西哥《メキシコ》の未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙語《スペインご》にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂《い》つてよろしい。安孫子《あびこ》君の報道でみると、倫敦《ロンドン》の商業会議所ではエスペラントを書記の必須科目にしてゐるさうだ、又黒板博士の話では倫敦の或るステーションにはエスペラントのガイドが居ると云ふ、かれこれ思ひ合せればエスペラントは或一部の人の想像するやうなユートピヤではない、既に世界の人から国際語として存在の価値あることを認められて現に応用されつゝあるものだ。
 発明後|僅《わづ》か二十年|経《た》つか経たぬ中に此通り弘まつたのは、一方から言へば人間の交通が益々頻繁になつて世界通用語の必要が切に感ぜられることを証拠立てると同時に、一方に於てはエスペラントなるものが此需要を満足する恰好《かつかう》の言語であることを証拠立てるとまあいふべきでせう。まあ試みにやつて御覧、それは造作もないものだ。文法は僅か十六則で、語根が一千語内外、それはあの「世界語」の終に載せた字書に残らず収まつてゐるから、あの字書さへあれば、十六則の文法を便りにして、一寸本も読めれば、会話も出来、手紙もかける、格別研究する必要もない位のものだ。論より証拠、かういふ私は浦潮でポストニコフといふ人から習つたと云つても唯アルファベットの読み方を教へて貰つたゞけの事で其外何も習つたのでない、而《しか》もアルファベットも習ひ放しで、いろ/\忙がしかつたものだから、教科書は鞄の中へ放り込んだ儘《まゝ》ツイ窺《のぞ》いてみた事もなかつたが、北京で仏人の手紙が届いた時、字引を引き/\読んでみると造作もなく分つた、分る事は分つたが返事が書けるかしらと、何しても此時初めてエスペラント語で書いたものを読んで見たのだから、内々危ぶみつゝ文法を読み読み、字引を繰《く》り/\やつてみると、手紙も亦《また》造作もなく書けた、尤《もつと》も余り名文でもなかつたかも知れぬが、兎に角意味の通じる程には書けた積りだ。これは私ばかりではない誰でも然《さ》うなので、現に此間も去る友人から「世界語」を一部送つて呉《くれ》ろと言つて来たから送つてやると、直ぐエスペラントで小版三頁程の手紙を寄越《よこ》した、尤も此友人は倫敦に永く居た人で英文に堪能である所為《せゐ》もあらうが、中々巧く書いてある、而《そ》してその言草が好いぢやないか、エスペラントの容易《やさ》しいのには驚いたトかうだ。が、実際その通りで驚く程容易しい、此通り誰でも研究といふ程の研究はせずとも、文法の十六則に一通り目を透《とほ》しさへすれば、一寸文章も書ける。こんな容易しい言語が世の中に又と有らうと思へぬ。さう容易しくては複雑な思想は言顕《いひあら》はせまいと思ふ人もあらうが、ところが然《さ》うでない。かの「世界語」の終りに載せた世界語既刊書目を見ても分るが、既にシェークスピヤのハムレットもエスペラントの飜訳になつてゐる、ヂッケンスのクリスマス、キャロルも飜訳になつてゐる、ハイネ、ゲーテの詩も飜訳されてある、バイロンも、プーシキンも、トルストイもシンキーウ※[#小書き片仮名ヰ、377−上−13]チも飜訳されてある、私が曾て苅心《かるしん》と署名して四日間といふガルシンのスケッチを反訳して新小説に出したことがあるが、あんなものまで最《も》う反訳されてある。是は皆美文だが、哲学書にしてもライプニッツのモナドロギイが反訳になつてゐる位だから、凡《およ》そ今の人間の言語で言顕はす事は、どんな事でもエスペラントで言はれぬといふことはない、それでゐて殆《ほとん》ど研究といふ程の研究をせんでも分るのだから、それから推《お》してもエスペラントの将来は実に多望だ。十年二十年と経つたら、今より数十倍応用の範囲が弘まり、五十年も経つたら、各国の小学校の必須科目になるかも知れん、現に既に必須科目にしてゐる地方もある位だから、そりや然ういふことになるかも知れん、私はエスペラントの将来に就いては大のオプチミストだ。
 まだ/\エスペラントに就いては大分言ひたい事がある、英語は今では日本にも大分弘まつてゐるやうではあるが、しかしまだ/\知らない人も多いだらうからさういふ謂はゞ外国語を習ひ後れた人には、是非エスペラントを勧めたい、それから英語なり独逸語なり、現在の外国語になると、何程手に入つたといつても、書いたものを直ぐ出版するといふことの出来る人は少からう、多くは是非一度英人なり独逸人なりに筆を入れて貰はなければ、安心して出版は出来まい、ところがエスペラントは何国《どこ》の言葉といふのでないから、同じ文法に依つて、同じ言葉を使ひながら、各国皆其スタイルが違ふやうだ、例《たと》へば英人は英語を、独逸人は独逸語を、仏人は仏語をそれ/″\エスペラントに引直して用ゐるから、英人のエスペラントには英語の臭味《くさみ》があり、仏人は仏語、独逸人は独逸語の臭味がある。だから日本のエスペラントは日本語の臭味があつたとて一向|差支《さしつかへ》ないと思ふ。これは非常に都合の好い話だから、願はくば多数の力でエスペラントの日本式スタイルを作つて、日本語の精神でエスペラントを使つて世界の人を相手にドシドシ著作の出来るやうにしたい。此外まだ言ひたい事は沢山あるけれど、まあ、此位で止めて置かう。
[#地から2字上げ](明治三十九年十月)



底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・二葉亭四迷集」筑摩書房
   1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:土屋隆
校正:Juki
2007年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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