一歩一歩地位を作つて行かうといふ一心で滿足してをりました。ところをかうやつて突き落されてしまつた。ですから、もう一度元の地位に這ひ戻らしてさへ貰へばよいといふ譯には、今ぢや參りません。出世させて貰はなくちやならん。ようございますか、今一度銀行へ入れて貰つて、元よりも高い地位に据ゑて貰はなくちやなりません。ご主人は私のために地位を工夫して下さらなくちやならん。
ノラ 主人が、そんなことをするものですか。
クログスタット いや、なさるでせう、私はご主人の人物を存じてをります――よもや拒みはなさるまいと思ひます。そして私が銀行に入れば、見ていらつしやい、直に支配人の右の腕にはなつてみせます。トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルト・ヘルマーでなくニルス・クログスタットが株式銀行は切り廻してご覽に入れます。
ノラ おやまあ、そんなことができるものですか。
クログスタット では何でせうな、あなた――?
ノラ もう止して下さい。今こそ私勇氣が出ましたよ。
クログスタット 私を嚇かしちやいけませんよ。貴女のやうな華車な荒い風にも當らないものがどうして――
ノラ まあ、見ていらつしやい!
クログスタット おそらく氷の下に閉じ込められて? あの冷たい黒い水の底に沈んで? 翌年の春になつて浮き上つて來ると、醜い嫌な姿に代つてゐて髮の毛も無くなつて、誰だか見わけもつかないやうになつて――
ノラ 私を怖がらせようと思つたつて駄目ですよ。
クログスタット 貴女も私を怖がらせようたつて駄目です。さういふことはできるものぢやありません、奧さん。また、やつたところで何の役にも立ちません。どんなことにならうとも、こちらのご主人はもう、私のポケットの中へ入れてるも同然です。
ノラ 後々までも? 私がゐなくなつてからも――?
クログスタット 貴女の名譽は私の手に握つてる事を忘れましたね(ノラ無言で立ち上り、クログスタットを見る)よろしい。覺悟がついたと見えますね。馬鹿なことをなさるなよ。ヘルマー君は、私の手紙を受取つたら、すぐに返事を下さるでせう。よく覺えてゐて下さい。私がまた、こんなことをしなくちやならないのもご主人のお蔭ですよ。どうあつてもそのまゝにはすまされませんからな。さようなら、奧さん(握手、廊下から出て行く。ノラは扉の方へ急ぎ足に行つて細目に開けて聞耳を立てる)
ノラ あいつ、行つてしまふ。手紙は郵便箱に入れないらしい。どうして、どうして、そんなことの出來ようはずはない。(扉を段々大きく開ける)おや、どうしたんだらう? あいつはまだ立つてゐる。階段を下りて行かないやうだが、考へ直しでもしたのか知ら? ひよつとしたら――(郵便箱の中へ手紙が入る。クログスタットの階段を下りてゆく足音が段々遠くなつて聞える。ノラ押しつけたやうな叫聲を上げる。暫く間を置いて)郵便箱に――(おづ/\と扉の所へ拔足して行く)あなた、あなた――たうとう私達の破滅になりました!
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(リンデン夫人が踊衣裳を持つて左手からよつて來る)
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リンデン さあ、もうすつかり直りました。ちよつと着てご覽なさい。
ノラ (嗄れ聲で柔かに)クリスチナさん、こちらへ。
リンデン (衣裳をソファの上において)どうなすつたんです? あなた、まるで顏色が變つてゐますよ。
ノラ こゝへいらつしやい。あの手紙が見えますか? さう、ね――あの郵便受のガラスに。
リンデン えゝ、えゝ、見えてよ。
ノラ あの手紙はクログスタットから來たんですよ――
リンデン ノラさん――あなたに金を貸してるのはクログスタットでしたのね?
ノラ えゝ、ですからもう愈々トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトが何もかも知つてしまふことになります。
リンデン ノラさん、惡いことは言ひません、きつとその方が貴女がたお二人のためですよ。
ノラ 貴女はまだすつかりわけがわからないから、そんなことを言ふけれど、私、實は名前を僞署してゐるのですよ――
リンデン どうしたんですつて――
ノラ ですから、ねえ、クリスチナさん、あなた聞いてゐて下さい。私のために證人になつて下さいな――
リンデン 證人とは? 何のです――
ノラ もし私が氣でも違ふやうだつたら――そんなことになるかも知れませんから。
リンデン まあ、ノラさん――
ノラ それでなくとも何か私の身の上に變つたことが起つたら――さうして私がもうかうしてゐられない場合にでもなつたら――
リンデン まあノラさん、あなた――どうかしたの?
ノラ もし誰か出て來て何もかも自分が引き受けようと言ふ場合には――すべての罪をね――わかりましたか?
リンデン えゝ、けれども、どうしてあなたはそんなことをお考へになるの――?
ノラ その時には、あなた、證人になつてね、それは嘘だと言つて下さいよ、クリスチナさん、私はちつとも本心を失つちやゐません。かうして言つてることは私よく知つてゐますよ。それでいつておくのですがね、この事件はちつとも他の人の知つたことぢやありません、私が何もかもしたのです、私自身の罪です、どうかそのことを忘れないでゐて下さい。
リンデン それは覺えておきますがね、どうしてそんなことをおつしやるか、私にはわかりません――
ノラ それがどうして貴女にわかりませう? これから現れて來ようといふ奇蹟ですもの。
リンデン 奇蹟ですつて?
ノラ えゝ、奇蹟。けれども非常に怖ろしいことなの、クリスチナさん。どんなことがあつても起つてくれちやならない事です。
リンデン ぢや、私クログスタツトの方へ直ぐ行つて話してみませう。
ノラ いけませんよ。あの男は貴女に害を加へますよ。
リンデン あの人は私のためなら何でもした時代がありましたのよ。
ノラ あいつが?
リンデン あの人の家は何處ですの?
ノラ そんなことをどうして私が――? さう/\(隱しを探る)こゝにあいつの名刺があります。けれども、あの手紙をどうしませう――
ヘルマー (外から戸を叩きながら)ノラ!
ノラ (恐怖の叫び)なあに? 何かご用ですか?
ヘルマー びつくりしなくてもいゝさ、入つて行きやしないから。お前、戸の錠をかけちやつたな、衣裳を着てみてるところかい?
ノラ さうです、さうです、着てみてるんです。大變よく似合つてよ、あなた。
リンデン (名刺を讀んで)ぢや、あの人の家はすぐ近くですね。
ノラ さうですよ、けれども、もう、そんなことは無駄です。手紙があゝして郵便受に入つてるんですもの。
リンデン そして箱の鍵はご主人が持つてお出でなの?
ノラ えゝ、いつも。
リンデン それぢや、クログスタットにさういつて、あの手紙を讀まないうちに取返させませう。何かいひ譯をさせればすみますから――
ノラ けれども、もうトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトがいつも郵便受をあける時刻ですから――
リンデン 引き止めておゝきなさいよ、いつも手を塞がせておくとよくつてよ、私出來るだけ早く歸つて來ますから(急いで廊下の扉を開けて行く)
ノラ (ヘルマーの室の扉を開けて中を覗く)あなた!
ヘルマー うむ、もうそつちへ行つてもいゝかね、さあランク君、行つてみよう――(入口の處で)おや、どうしたんだ?
ノラ なあに? あなた。
ヘルマー ランク君の話で、大變な衣裳稽古を見る積りだつたが?
ランク (入口の所で)私もさう思つてゐた。聞き違ひとみえる。
ノラ いけませんよ、明日の晩までは私の晴衣裳は誰にも見せないの。
ヘルマー どうしたんだ、お前は大變疲れてるやうにみえる、稽古をし過ぎたのだらう。
ノラ いゝえ、まだ少しも稽古なんかしやしません。
ヘルマー けれども、お前やらなくちやいけないんだらう――
ノラ えゝ是非やらなくちやならないんですよ。けれどもね、あなた來て教へて下さらなきや、やれないんですもの、私みんな忘れちやつた。
ヘルマー あゝ、そりやまた直に思ひ出すさ。
ノラ ですから教へて下さいな、ねえ、よくつて、それぢや約束して下さい――本當に私、氣にかゝつてならないの。あんな大勢の人の前で――今夜は貴方、すつかり私のために身體をあけておいて下さいな。これつぱかりでも仕事をしてはいけなくつてよ。さ、約束して下さいな、よくつてあなた?
ヘルマー 約束するよ、今夜はすつかりお前の奴隷になるよ。可哀さうに、氣の弱い奴だな――それはさうと先づ――(廊下の扉の方へ行きながら)
ノラ 何をなさるの?
ヘルマー 手紙が來てやしないか見るのさ。
ノラ いけません、いけません。そんなことをしちや、ねえ。
ヘルマー なぜさ?
ノラ あなた、お願ひですから止して下さいな、手紙なんか來ちやゐませんよ。
ヘルマー ま、ま、見てくるよ(行かうとする)
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(ノラはピアノの前に坐つて、タランテラ踊の音樂の一小節を奏でる)
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ヘルマー (入口の處に立止る)おや?
ノラ 私最初にあなたとお浚《さら》ひをしておかなくちや明日踊れませんもの。
ヘルマー (女の方へ行きながら)お前本當にさう昂奮してるのかえ、ノラ?
ノラ えゝ、じつとしてゐられないんですよ。さ、すぐお浚へにかゝりませう。お夕飯までにはまだ時間があります。ね、坐つて彈いて下さいよ、あなた。いつものやうに指圖して下さいよ。
ヘルマー しろといふんなら、そりやもう悦んでするさ(ピアノの臺の前に坐る。ノラ、箱の中からタンバリンを取出す。そして急いで長い雜色織のショールを身にまとふ。そして一とびして床の眞中に立つ)
ノラ さあ、彈いて下さい! 踊りますよ!
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(ヘルマーが彈きノラが踊る。ランクはピアノの前、ヘルマーの後に立つて眺めてゐる)
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ヘルマー (彈きながら)もつと、ゆつくり、ゆつくり!
ノラ ゆつくりは踊れませんの。
ヘルマー これノラ、そんな亂暴でなく。
ノラ いゝんですよ、いゝんですよ。
ヘルマー (止める)ノラ! それぢや到底ものにならないよ。
ノラ (笑つてタンバリンを振り動かす)だから、さういつたぢやありませんか。
ランク 私が彈いてあげませう。
ヘルマー あゝ、どうか――さうすれば私が教へてやるのに都合がいゝから。
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(ランクはピアノに向つて彈ずる。ノラは段々氣狂のやうに踊り出す。ヘルマーはストーヴの傍に立つて、絶えずノラの踊振りを直すやうに差圖する。ノラはその言葉が聞えないやうにみえる。その髮の毛がほぐれて兩肩に垂れかゝる。ノラはそれに氣も付かない樣子で踊り進む。そこへリンデン夫人が入つてきて、入口の處に襲はれた樣に立すくむ)
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リンデン まあ――
ノラ (踊りながら)こんな面白いことをしてるんですよ、クリスチナさん!
ヘルマー どうしたんだ、ノラ、お前の踊りはまるで生死《いきしに》の騷ぎのやうだ。
ノラ えゝ、生命がけの踊りなの。
ヘルマー ランク君、止め給へ! これぢやまるで氣狂だ。おい君止め給へ。
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(ランク、ピアノを彈き止める。ノラ、それと同時に突然立止つて身動きもせぬ)
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ヘルマー (女の方へ行きながら)これほどまでとは思はなかつたが、お前、俺の教へてやつたものを、すつかり忘れてしまつたな。
ノラ (タンバリンを投出す)ね、ご覽なすつたでせう。
ヘルマー これぢやあ實際教へる必要がある。
ノラ ね、教はる必要があるでせう。だから愈々といふ間際まで、あなたすつかり稽古をして下さらなくつちやいけません。その約束をして下さいよ、ね。
ヘルマー よろしい、よろしい。
ノラ 今日と明日とは私のことのほか、何も考へないでゐて下さい。手紙一本だつて開
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