けちやいけませんよ――郵便受なんか見ちやいけませんよ。
ヘルマー あゝ、お前やつぱり、あの男を怖がつてるんだな――
ノラ さうですよ、私怖いんですよ。
ヘルマー お前の顏にちやんと書いてあるよ。ノラ――あいつから來た手紙があの郵便受の中にあるな。
ノラ どうですか、さうかも知れませんね。けれどもあなた、今は何だつて讀んぢやいけませんよ。すつかり濟んじまふまでは、私とあなたの間には外のことは一切なしにするんですよ。
ランク (ヘルマーに向つて柔かに)逆らはないでおいた方がいゝ。
ヘルマー (手を女にかけながら)赤ん坊だからな、したいやうにさせておくさ。けれども、明日の晩踊りがすんだら――
ノラ その時は、あなたの自由よ。
[#ここから3字下げ]
(エレンが右手の入口のところへ出て來る)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
エレン 奧さま、お夕飯の仕度が出來ました。
ノラ シャンペンを出しておおきよ、エレン。
[#ここから3字下げ]
(エレンお辭儀をする)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ヘルマー おや/\、宴會のやうだな。
ノラ えゝ、そして明日の朝まで飮み續けませうよ(エレン去る、その方へ向いて呼ぶ)それからね、エレン(エレン出る)パン菓子も出しておおき――どつさりだよ――これ一度つきりだから。(エレン去る)
ヘルマー (ノラの手を捕へながら)これ、これ、さう無闇に昂奮しちやいけない、もう一度家の小雲雀になんなさい。
ノラ えゝ、なります。けれども、まあ、食堂の方へいらつしやいよ。それから、あなたもね、ランク先生。クリスチナさん、あなたは髮を解かすから手傳つて頂戴。
ランク (彼方へ行きながら柔かに)この先き何か變つたことでもあるのぢやないかね? 何もなければいゝが――
ヘルマー なあに、なにそんな譯ぢやない、いつも話したのがあれなんだよ、物を氣にかけてくると、まるで赤ん坊になつてしまふ。
[#ここから3字下げ]
(兩人、右手の方へ出て行く)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ノラ それで?
リンデン あの人は旅行してゐて、こつちにゐません。
ノラ そんなことだらうと、あなたの顏を見た時に思ひました。
リンデン 明日の晩は歸つて來ますから、手紙をおいて來ました。
ノラ そんなことをなさらない方がよかつたのに。出來かゝつたことなら、ほつとくより他に仕方がありません。けれども、なんですねえ、奇蹟を待つてる氣持といふものは、何だかいふにいはれない晴れがましいものですねえ。
リンデン その待つてる奇蹟といふのを聞かせて下さい。
ノラ それは、あなたにはわかりませんわ、食堂の方へいらつしやい。私も直ぐ行きますから。
[#ここから3字下げ]
(リンデン夫人は食堂へ入る。ノラは考へを落着けるやうな樣子で、暫く立つてゐる。そして懷中時計を眺める)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ノラ 五時だ、夜半までもう七時間、それから明日の夜半まで二十四時間。さうすると、丁度タランテラがお仕舞ひになる。二十四時間と七時間? みんなで、あと三十一時間の命だわ。
[#ここから3字下げ]
(ヘルマーが右手の扉のところへ現はれる)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ヘルマー ヘルマー家の小雲雀は何をしてるんだい?
ノラ (兩腕を擴げて夫に走りすがる)こゝにをりますよ!
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

    第三幕


[#ここから3字下げ]
同じ室。中央にテーブル、その廻りに二三脚の椅子。テーブルの上にはランプが點つてゐる。廊下への扉は開いたまゝで二階から舞踏の音樂が聞える。
リンデン夫人は、テーブルの側によつて、放心の體で書物を繰り擴げてゐる。讀まうとして見るが注意が集まらない樣子。度々聞耳を立て、廊下の扉の方を氣遣はしげに見る。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
リンデン (懷中時計を見て)まだやつてこない、時間はもう無くなりかけてゐるのに、もしあの人がこなかつたら――(また聞耳を立てる)あ、やつて來た――(廊下に行つて、そつと外の扉を開ける。靜かな足音が階段の方に聞える。リンデンは囁く)お入んなさい、誰もゐないから。
クログスタット (入口の所で)あなたの置手紙を讀みました、あれはどういふ譯でおよこしになつたのですか?
リンデン 是非あなたに、お話したいことがありまして。
クログスタット さうですか? そしてこの家で?
リンデン 私の間借をしてます家では、お目にかゝれないのですよ、別な入口がないものですから。まあお入んなさい、二人きりですよ、女中さんはもう寢てゐますし、この家では夫婦とも二階の舞踏會に行つてますから。
クログスタット (室に入つて來ながら)はゝあ! それぢや、ヘルマー夫婦は今夜、舞踏會に行つてますか。さうですかい。
リンデン えゝ、踊りに行つてたつていゝぢやありませんか。
クログスタット いゝですとも。何で惡いものですか。
リンデン ぢやちよつとあなたにお話がしたいんですが――
クログスタット 私たち二人の間に話があるといふのはなんですかな?
リンデン 澤山ありますよ。
クログスタット 別にあるはずもないと思ふがな。
リンデン それは、あなたが私を本當に理解して下さらないからです。
クログスタット 理解することが何かありますか。これほど當り前のことはなかつたでせう?――薄情な女が好い相手を見つけて前の男を捨てゝしまふ。
リンデン あなたは實際私をそんな薄情者だと思つていらつしやるの? 私があなたと別れたのはそんな簡單なことだつたと思つていらつしやるの?
クログスタット 簡單ぢやありませんか。
リンデン 本當にさう思つてらつしやるのですか?
クログスタット もしさうでないなら、なぜあんな手紙をよこしました?
リンデン だつて、あれが一番いゝ手段ぢやありませんか? 別れなくちやならない事情になつた以上、私に對するあなたの愛をなくさすのが一番よかつたでせう。
クログスタット (自分の兩手を握りしめながら)さういふわけでしたか? そしてその起りといへば――皆、金のためだ――
リンデン 私には頼りない母と二人の弟があつたことをお忘れなすつちやいけませんよ、私達はあなたの行末を當にして待つてゐるわけには行かなかつたのです。
クログスタット それであなたには、私を捨てゝ他人に見更へる權利があるのですか。
リンデン どうですか、私もそのことについては、折々自分が惡かつたか知らと思ひ直してみます。
クログスタット (一層柔かに)あなたに捨てられた當座は、大地が足の下から沈んで行くやうな氣持でした。まあ私を見て下さい、私は今ぢや帆柱にすがりついてる難船者だ。
リンデン あなた、すぐ傍まで救助船が來てるかも知れませんよ。
クログスタット 何、來かゝつてゐたんだ。ところへあなたが出て來て邪魔をしてしまつたんだ。
リンデン 私はちつとも知らなかつたのですよ、あなた。あの銀行で私と入替にされたのが、あなただといふことを、今日まで知らなかつたのですよ。
クログスタット ふむ、それぢやあ、その方はさうとしておいて、愈々それとわかつてみれば、どうです、私にそれを讓らうとおつしやるのでせうか?
リンデン いゝえ、そんなことはあなたを救ふ道ではないと思ひます。
クログスタット あゝ、その救ひです――私は是非ともさうして頂きたい。
リンデン ですけれども、私も冷靜にことを運べと教へられましたからね、世間とむごい辛い暮しとが私を教育したのですよ。
クログスタット それから、私には人の言葉を滅多に信用するなと世間が教へてくれました。
リンデン ぢや世間はあなたに本當のことを教へましたね。けれども實行すれば信用なさるでせう。
クログスタット といふと――?
リンデン お話によると、あなたは今難船して帆柱に縋りついていらつしやるのですね。
クログスタット さういへる理由が澤山あります。
リンデン さうすれば、私も難船して帆柱に縋つてゐる女でせう? 誰を愛するといふ當もなく。
クログスタット それは、あなたがすき好んでおやんなすつたことだ。
リンデン 好き嫌ひをいふ暇はなかつたのです。
クログスタット まあ、さうとして、それでどうするといふのです?
リンデン かうやつて難船した二人が手を握り合ふことが出來たら、どんなものでせう。
クログスタット 何ですと?
リンデン 一本々々の帆柱に縋りついてゐるよりか、それを組合せて筏にした方がいゝ譯でせう。
クログスタット クリスチナ!
リンデン 私がこの町へ來たのは、どういふ譯だと思つていらつしやるの?
クログスタット 何か私のことでも考へて來たのか?
リンデン 何よりも仕事をしなくてはなりますまい? 仕事をしなければ生きて行けませんからね、私の覺えてゐる限りでは、私は一生仕事のし通しですよ。仕事が私にとつては非常な樂しみになつてゐました、ところが、かうして唯一人になつてみますと、自分で自分を當に仕事をすると言ふことは、ちつとも幸福なものぢやありません。ですからねあなた、どうか當にして働く甲斐のある人を私に見付けて下さいな。そんな風にして仕事をさせて下さいな。
クログスタット いや、いや、それは駄目だ。たゞもう女が自分を犧牲にしようといふロマンチックな考へに過ぎないんだ。
リンデン あなたは私をロマンチックな女だと思つてらつしやつて?
クログスタット では、あなたは實際? 全體あなたは私の過去を知つてますか?
リンデン えゝ。
クログスタット そして世間の奴が私をどういつてるか、それも知つてますか?
リンデン ですけど、あなたは今、私と一緒だつたらまるで別な人になつてゐたらうとおつしやるやうなお口吻だつたぢやありませんか。
クログスタット それは確かにさうだ。
リンデン 今ではもう遲くつて?
クログスタット クリスチナ、あなたは自分で今何をいつてるか、知つてゐますか、あゝ、知つてゐるにちがひない。あなたの顏はさういつてゐる。ほんたうにあなたは、その勇氣を持つてゐるのか――?
リンデン 私には頼る男が要るし、あなたの子供には母が要るでせう? あなたには、私といふものが必要だし、私には――私にはあなたが必要です。ねえあなた、私はあなたの立派な本當の心を頼りにしますよ。あなたと一緒なら私は何にも怖いものはありません。
クログスタット (女の手を取りながら)有難う――(立つ)有難うクリスチナ、これから一つあなたが見てくれた本當の私に立ち戻つて世間の奴を見返してやるよ。あ、私は忘れてゐた――
リンデン (聞耳を立てながら)叱ッ! タランテラよ、早くお歸んなさいよ。
クログスタット どうして? どうしろといふんだ?
リンデン 上で踊つてるのが聞えませんか? あれが濟むと、直ぐここの人達が歸つてくるでせうよ。
クログスタット わかつた、わかつた。歸らう。だが今となつてはもう手遲れだよ。私がこのヘルマーの家に對してやりかけてゐることが、どんなことだか無論お前は知るまいが。
リンデン いゝえ、知つてゐます。
クログスタット クリスチナ、それでもあなたは、あゝいふことをする勇氣が――
リンデン それはね、あなただつて絶望すれば、どんなことでもやらうとするでせう? それは私察してゐますよ。
クログスタット あゝ、どうかして取消すことが出來るといゝがな。
リンデン 出來ます――あなたの手紙はまだ郵便受の中にあります。
クログスタット たしかに?
リンデン えゝ、けれどもね――
クログスタット (探るやうな目付で女を見ながら)あはあ! わかつた。あなたは、どんなことをしてゞもあなたの友人を救はうといふ腹なんだな。いつておしまひ――それがあなたの本心なのかい?
リンデン あなた、女は一度他人に身を賣れば、二度とそんなこと
前へ 次へ
全15ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島村 抱月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング