るだらう。さうなるときつとその結果は現はれてくる。のみならず、今一つ私が到底クログスタットと一緒に仕事の出來ない理由がある。
ノラ どんなこと?
ヘルマー 俺は已むを得なければ、あいつの暗い性格は我慢できるかも知れない――
ノラ えゝ、さう。
ヘルマー それから仕事にかけては立派だといふことも聞いてゐる。たゞかういふことがあるのだ。あいつはもと、私の大學の友達でね――よく後悔することだが、その頃の亂暴な向ふ見ずの交際をやつたものだ。ここで白状してもかまはないが、あいつと私とは實はそのため俺貴樣のつき合ひをするのだ。ところがあいつめ誰の前でも構はず、俺とさも親しげに振舞ふのを得意にしてやがる――おいトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトかうしろ、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトあゝしろといふ。それが俺に取つては實際苦痛で堪らない。あのまゝで行くと俺の銀行の地位は持ち切れなくなるかも知れないよ。
ノラ あなた、眞面目なの?
ヘルマー 眞面目なのかつて? なぜだ?
ノラ そんなことは小つぽけな理由ぢやありませんか。
ヘルマー 何だつて? 小つぽけな? お前は俺を小つぽけな人間だと考へるのか。
ノラ いゝえ、その反對ですわ、ですから私は――
ヘルマー いゝよ、お前は私の理由を小つぽけだといつたから即ち俺が小つぽけなのに相違ない。小つぽけな! 宜しい、この事件はもうここらで思ひ切つて最後の極りをつけよう(廊下の扉のところに行き呼ぶ)エレン!
ノラ 何のご用?
ヘルマー (書類の中を探しながら)結末をつけるのさ、さ、この手紙を使に頼んで持たせてやつてくれ。直ぐやるんだよ、宛名はそれに書いてある。これが使ひ賃だ。
エレン はい畏りました(手紙を持つて出て行く)
ヘルマー (書類を重ねながら)さあ、剛情奧さん。
ノラ (息をしないで)あなた、あの手紙は、どんな用のですか?
ヘルマー クログスタットの免職だ。
ノラ 呼び返して下さい、よ! まだ間に合ひますから。ねえ、あなた、取り返して下さいよ。私のためです。それから貴方のためにも、子供のためにも。ねえ、聞えましたか? ねえ、どうぞ。あなたは、その手紙が私達にどんな祟りをするかご存じないんですもの。
ヘルマー もう遲い。
ノラ もう遲い。
ヘルマー これノラ、お前のしてる心配は俺に取つては少しも有難くないんだが、それはまあいゝとするよ、何で私が惡徳記者の怨なんか恐れる必要があるか、けれども、それはそれとして、お前のいつたことは構はない、俺を非常に愛してくれる證據なのだから。(ノラを兩腕に取り)これで先づ片はついたといふものだ、な、ノラ。どうにだつてなるものはならせておくさ。時機が來れば必要に應じて力も出せば勇氣も出す。まあ見てお出で、俺の廣い肩でどんな重荷が來ても背負つて立つてやるから。
ノラ (恐怖に打たれて)あなた、それは何をおつしやるのです?
ヘルマー 重荷をすつかりといふんだ。
ノラ (決心して)あなたにそんなことは決してさせません。決して(ヘルマーを抱く)
ヘルマー よし/\。ぢやあ二人で分擔するさ、夫と妻とでねえ。(ノラを手で輕く叩きながら)それで得心が行つたかい、さあ、さあ、さあ、そんな顏をしないで。今いつたやうなことは何でもない、みんな空想だ。さあこれからタランテラをすつかり彈いてタンバリンの稽古をしなくちや。俺は書齋に引込んで、兩方の扉を閉めておくから何も聞える氣遣ひはない。幾らでも騷ぎたいだけ騷いでもいゝよ。(入口の所で振り向いて)それからランク君が見えたら書齋に來るやうにいつてくれ。(ノラに頷いてみせて書類を持つて自分の室に入り扉を閉める)
ノラ (恐怖に度を失つて地から生えたやうに突立つ、そして囁く)あの人は、やるに違ひない。どんなことがあつてもやるに違ひない。いけない、そればかしはどんなことがあつても、どんなことがあつてもさせやしない。そんなことをさせるくらゐならどんなことだつて出來る。あゝ、何とかそんなことにならない方法はないかしら、どうしたらいゝだらう? (廊下のベルが鳴る)ランク先生だ――そんなことをさせるくらゐなら何だつて出來ないことはない。何だつて何だつて。
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(ノラ、兩手で顏を撫でて氣を取り直し、扉の方へ行つて開ける。ランクは外に外套をかけながら立つてゐる。次の臺詞の間に段々暗くなる)
[#ここで字下げ終わり]
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ノラ 先生、今日は――ベルの鳴り具合で、あなたといふことがわかりますよ。けど、あなた、今はトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの方へいらしてはいけませんよ。忙しさうですから。
ランク あなたはお暇なのですか?
ノラ 私はもう、あなたのためなら、いつだつて時間を明けてるぢやありませんか。
ランク 有難う、ぢや、ご親切に甘えて出來るだけゆつくりして行きませう。
ノラ 出來るだけゆつくりですつて?
ランク はあ、それが氣に懸りますか。
ノラ 何だか變なおつしやりやうぢやありませんか。何か變つたことでもありさうですね。
ランク 前から仕度をして待つてゐたことが來さうです。たゞこんなに早く來ようとは思はなかつた。
ノラ (ランクの腕を取りながら)それはどんなことです? 先生、聞かして下さい。
ランク (ストーヴの傍に坐りながら)私は今、急な坂を馳け下りてるやうなものです。助けようといつたつて方法はありません。
ノラ (ホッと長い息を引く)あなたが――?
ランク 私でなくて誰のことをいふものですか――自分で自分を欺いてゐたつて仕樣がない。家へ來る患者の中で一番慘めなのは私ですよ、奧さん。私は久しい間自分の生命の計算をやつてましたが――たうとう破算です。一月經たないうちに私は墓場へ行つて腐らなくちやならない。
ノラ まあ! 何ていやなことをおつしやる。
ランク 事柄が全體情ない、嫌な事なんですからね。たゞ困つたことにはその外にまだまだ嫌なことを澤山通り越さなくちやなりません。それからもう一つ最後の研究が殘つてゐて、それが濟むと愈々破滅の始まる日限も決つてきます。それで一言あなたに申上げて置きたいが、ヘルマー君はあゝいふ神經質な人ですから、すべて恐ろしいものは避ける傾きを持つてゐます。だから、あの人を私の病室へは入れたくないものです。
ノラ ですけれど先生――
ランク いや、來ないやうにしなくちやいけません――どんなことがあつても、それだけはいけませんよ。來たつて戸を閉めて入れない、それで私がもういけないと決つたら、すぐ名刺の上に墨で十字架をかいて送りますから、その時には愈々恐ろしいことが始つたと思つて下さい。
ノラ まあ何てことを、あなた、今日はまるで駄々ッ子ですね、今日こそ愉快にして頂きたいの――
ランク 正面から死といふものに睨まれてゐてですか? そして他人の罪惡のために私が苦しまなくちやならない、そんな理窟に合はない話があるもんか。
ノラ (兩方の耳をふさぎながら)もう/\そんなことは止して下さい。さあ愉快になさいよ。
ランク あゝあ、要するに世のなかのことといふものはをかしなものだ。何も知らない私の背髓が親父の將校時代の放蕩の償ひをしなくちやならないなんて。
ノラ (左手のテーブルに向つて)多分、あなたのお父さんはアスパラガスや鳥の卵がお好きだつたでせうね?
ランク えゝ、それから菌《きのこ》も好きでした。
ノラ さうでせうね菌《きのこ》も。それからきつと牡蠣もお好きでしたらう?
ランク えゝ、牡蠣、牡蠣は勿論ですとも。
ノラ それから葡萄酒、シャンペン、皆お好きでしたらう? 全くみんな結構なものばかしだけど、それが背髓を惡くするなんてね、ホヽヽヽ。
ランク それも惡くなつた背髓が自分でそんなものを食つたわけぢやないんですからね。
ノラ えゝ、それが何よりもね。
ランク (探るやうな目付で女を見る)ふむ――
ノラ (ちよつとして)何をお笑ひなすつて?
ランク いゝや、お笑ひなすつたのは、貴女だ。
ノラ いゝえ、あなたですよ、先生、お笑ひなすつたのは。
ランク (立ち上りながら)あなた――あなたも相當なものですね。
ノラ 私、今日は氣が違ひさうなんです。(唐突に)
ランク さう、そんな風ですよ。
ノラ (兩手を男の肩にかけ)ね、先生、あなたをトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトや私から連れて行くことは死の力でも出來ませんわね。
ランク なあに、ゐなくなれば譯なく忘れておしまひなさる、去る者日々に疎しでね。
ノラ (心配氣に男の方を見る)さうでせうか?
ランク 新しい友達を拵へて、そして――
ノラ 誰が新しい友達を拵へるの?
ランク あなた方がさ、私のゐなくなつた後でね。現にあなたはもう機敏にその機會を捉へようとしてお出でのやうに見える。あのリンデンの奧さんといふのは、昨日ここで何をしてゐたのですか?
ノラ あら、あんなこと――クリスチナさんのことを妬いてらつしやるんですか?
ランク えゝ、妬けます。あの婦人が私の後繼になつてこの家へ這ひこむんでせう。私がゐなくなると、きつとあの人が――
ノラ 叱ッ! そんな大きな聲をして、あの方がそこにをりますよ。
ランク 今日も來てゐるんですか、さうれご覽なさい。
ノラ たゞ私の衣裳を直しにですよ――どうしてあなた、そんなに駄々をお捏ねなさる――(ソファに坐る)さあ、いゝ子におなんなさいよ、先生。私明日はね、本當に旨く踊つてみせますよ。その時には貴方、私が貴方を喜ばせたいばつかりに踊つてるのだと思つてらつしやい――無論それはトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトのためにもなんだけれど(箱の中から色々の物を取り出す)先生、こゝへお掛けなさい、お目にかけるものがありますわ。
ランク (坐りながら)何ですそれは?
ノラ さ、これ!
ランク 絹の靴下。
ノラ 肉色、綺麗でせう? おやどうしよう。暗くなつたこと、けど明日はね――あら、いけませんよ、踵の方ばかし見ていらつしやい、さ、もういゝわ、もう上の方を見てもよくつてよ。
ランク ふむ――(じろ/\眺める)
ノラ どうして、そんなにじつと眺めていらつしやるの? 私に似合はないこと。
ランク さあ何と云つたらいゝか。さうしたことは私にはわかりません。
ノラ (暫く男の方を見てゐて)まあ、いぢわる。(靴下で男の耳の處を輕く打つ)これが罰ですよ(靴下を元のやうに卷いておく)
ランク まだ外に何か珍らしいものがありますか?
ノラ もう、あなたには見せない。禮儀を知らないから。(ちよつと鼻唄を歌ひ、色々な物を探しまはる)
ランク (暫く默つてゐた後)かうして、あなた方と親しくして無駄口でも利いてると私はつくづくさう思ひますね、これが、もしまるでこの家に出入りをしなかつたら、私の身體はどうなつてるでせう?
ノラ (微笑しながら)さう思ふでせう? あなたは私どもへいらつしやると、全く樂しさうに見えますよ。
ランク (眞直に自分の前を見ながら、一層柔かな調子で)ところが、もう、すつかりそれも見納めにしなくちやならない――
ノラ 下らないこと、私どもを見限つていらつしやるには及びますまい。
ランク (前と同じ調子で)そして後には、何一つ禮をいはれるようなこともしておかないし、せめて當座だけでも氣の毒だと思つてくれる人もありません。――たゞもうゐなくなつて空虚が出來たといふだけで、そんなものは代りが來さへすれば直ぐ埋まつてしまふ。
ノラ ぢやあ、もし私がお頼みすることがあつたら――? 止しませう――
ランク どういふお頼みですか?
ノラ あなたのご友情の印に。
ランク ふむ――といふのは?
ノラ よさう/\。本當はね――大變な役目。
ランク 一生の思ひ出に是非それをさせて下さい。私はどんなにか嬉しいでせう。
ノラ だつて、あなた、どんなことだかご存じないぢやありませんか。
ランク ぢや、聞かせて下さい。
ノラ いけませんよ、本當にいへないんですよ。全く大變なことですも
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