仕つけられると思へる? 母親がゐなくなつたら忘れてしまふだらうか?
アンナ まあ、何をおつしやいます。ゐなくなつたらですつて?
ノラ あのねえ、アンナ――私いつもさう思ふのだけれど――どうしてお前は自分の子供を他人にやることが出來たの?
アンナ ノラさんをお育て申すことになつて否應なしにさうしたのでございます。
ノラ けれども、どうしてそんな決心がついたの?
アンナ それはあなた、いゝ口が見つかつたのでございますもの。女の身で、年は行かず頼る所はなし、不幸續きでゐたのでございますから、何だつて見つかつたものを取り逃してはなりません。あの薄情男めは何一つ私の世話をしようともしなかつたのでございますよ。
ノラ それぢや、お前の娘さんは、お前を忘れてしまつただらうね。
アンナ ところがそんなことはございませんよ、奧さま。忘れないものと見えましてあれが聖體式を受けました時と結婚しました時には、手紙をよこしました。
ノラ (アンナを抱きながら)ねえ婆や、お前も年を取つたねえ――私小さい時は本當に母親も及ばない世話になつたつけ。
アンナ あの頃のノラさんは本當にお可哀さうでしたよ、お母さまはいらつしやらず、私ひとりが頼りだつたのですからね。
ノラ 私の子供が、また、母親をなくすやうなことがあつたら、お前きつと――よさう、よさう、馬鹿らしい(箱を明ける)子供の方へ行つて頂戴、さあこれから――私明日はどんなに綺麗だか見ておくれよ。
アンナ きつと明日の舞踏會には、ノラさんより綺麗な方はないにきまつてゐますよ(左手の室に入る)
ノラ (箱から衣裳を取り出す。けれども直ぐまた下に投出す)あゝ、思ひ切つて出て行つちまつたら、誰も來なければいゝがねえ、それまで何事もないといゝが、馬鹿なこと、誰も來やしない、考へないでさへゐればいゝ。何ていゝマフだらう。綺麗な手袋だこと、綺麗な手袋だこと。えゝ、忘れちまへ、忘れちまへ、一、二、三、四、五、六――(叫び聲を立てゝ)おゝ、あの男がやつて來た――(扉の方へ行つて躊躇しながらそこに立つ)
[#ここから3字下げ]
(リンデン夫人が廊下で外出仕度の物を脱ぎ入つて來る)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ノラ おや、あなた? クリスチナさん、外には誰も來ませんでしたか? まあよくいらつしやつたわね。
リンデン 私の所へお出でになつたさうですね。
ノラ えゝ、丁度通りかゝつたものですからね、私、あなたに是非手傳つて頂きたいことがあるんですよ。さあ、お掛けなさい、ソファがいゝわ――さう、明日の晩ね、この二階にゐる領事のステンボルグさんで假裝舞踏會があるのですよ、それでね、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトが私にナポリの漁師娘になれといふんです。そして私がイタリアのカプリで習つたタランテラを踊れといふんですよ。
リンデン さうですか、見物でせうね。
ノラ えゝ、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトがそれがいゝといひますから。ご覽なさい、これがその衣裳ですよ。イタリアで私に拵へてくれたのです。けれども、もうこんなにぼろぼろになつちやつて、どうしていゝか――
リンデン あなた、直ぐなほせますよ。たゞ縁が所々ほぐれたばかりですもの。針と絲がありますか? あゝここにあります。
ノラ まあ、すみませんねえ。
リンデン では明日は、すつかり衣裳をお着けになるのね。ノラさん、どんなにか――私、拜見に來ますよ。ちよつとでいゝから、お仕度の出來上つたところを。おや、お禮をいふのを忘れてゐた。昨晩はご馳走さま。
ノラ (立ち上り室を向ふへ歩く)いゝえ、昨日はね、不斷ほど面白くなかつたのですよ。もう少し早くいらつしやるとよかつた。トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトは實際、家の中を樂しくするのが上手なの。
リンデン あなただつてさうぢやありませんか。でなければお父さんのお子さんぢやありませんもの。それはさうと――ランク先生はいつもあんなに昨晩のやうに沈んでいらつしやいますか?
ノラ いゝえ、昨晩は特別でしたのよ。あの方はね、恐ろしい病氣を持つてゐます、背髓癆ださうです。
リンデン (縫物を續ける、ちよつと經つて)ランク先生は毎日此方へ見えるの?
ノラ えゝ、毎日。あの方はね、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの子供の時からのお友達で私も大變親しくしてゐるの、まるで家のもの同樣にしてゐるの。
リンデン ですがね、あなた――あの方は全く眞面目な方なの? 口先だけの出任せをいふ人ぢやありませんか?
ノラ そんなことはありませんわ、どうしてそんな風にお考へなすつて?
リンデン 昨日あなたがお引合せ下すつた時にあの方は、何度も私の名を聞いたといつたでせう? ところがお宅のご主人は少しも私をご存じなかつたでせう? それでどうしてランク先生が――?
ノラ あ、それはランク先生のいふ通りですの。クリスチナさん。全體トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトが私を愛してることといつたら一通りや二通りぢやないんですからね、私の體を全く自分の物にしきらないと承知しないの、いつも自分でさういつてるのよ。ですから結婚した當座なんか、私が里にゐる頃親しくしてゐた人の名でもいはうものなら、もうすぐ妬きもちをやくのですよ。そんな風で自然にさうしたことをいはないやうにして置いたのですけれどね、ランク先生にはよく昔のことなんか話しましたのよ、あの方はそんなことを聞くのが大變好きなものだから。
リンデン ですけれどねえ、ノラさん、あなたはまだ、どうしてもねんねえよ。私あなたよりは年も上だし、經驗も幾らか餘計に積んでるからいひますがね、あなたはランク先生との關係を、きちんとしておく必要がありますよ。
ノラ どんな關係?
リンデン あなたは昨日、金持であなたを崇拜してる人にお金を拵へて貰ふといつたでせう?――
ノラ えゝ、實際はゐない人にねえ、お氣の毒さま、それがどうしました?
リンデン ランク先生はお金を持つてるの?
ノラ えゝ、持つてます。
リンデン そして、遺産相續といつては、誰もゐないでせう?
ノラ 誰もゐません。だけれど――
リンデン それで以て、あの人は毎日この家へ來るんでせう?
ノラ えゝ、毎日。
リンデン 私は、あの人がもう少し嗜みを持つててくれるといゝと思ひます。
ノラ 私まだあなたのおつしやる意味がわからない。
リンデン 白ばくれちやいけませんよ、ノラさん。あなたまだ千二百ターレルのお金をあなたに貸した人が、誰だか私に當てがつかないと思つてるの?
ノラ はゝはゝ、どうかしてるわ、あなた、さういふ考へでゐたのですね。毎日家へ來るお友達から借金をするなんて! どんなに氣まづいだらう。
リンデン ぢやあ本當にあの人ぢやないの?
ノラ えゝ本當に。そんなことは今まで考へて見たこともありません――それにあの頃はまだ、あの方には人に貸すやうなお金は無かつたのですよ。財産の手に入つたのは後の事なの。
リンデン まあ、その方があなたのためにはよかつたと思ひます。
ノラ 全く私、ランク先生のことなんぞは考へても見なかつたのだけれど、もしあの方に頼んだらきつと――
リンデン けれども、あなた頼む氣は無論ないのでせう?
ノラ 無論ですとも。そんな必要なんかないんですもの。けれども、きつと何よ、もしランク先生に話したら――
リンデン ご主人にいはないで?
ノラ 私ね、これから切り拔けなくちやならないことがあるの、それも主人に隱して是非その方の片をつけなくちやならない。
リンデン それがいゝわ、私、昨日もさういつたでせう? たゞ――
ノラ (あちらこちらと歩きながら)えゝ、こんなことを運ぶのは、女よりもずつと男の方がいゝんだけれど。
リンデン 夫にさせるなら、無論いゝですとも。
ノラ そんな馬鹿な(じつと立止る)あのね、借りてたものをすつかり返せば證書は返つて來るのでせうか?
リンデン 無論ですよ。
ノラ 返つて來たら、あの汚れた嫌なものをずた/\に引き裂いて燒いてしまひたいわ!
リンデン (じつとノラを見て、仕事の物を下に置いて徐々と立上る)ノラさん、あなたは私に何か隱していらつしやるのね?
ノラ さう私の顏に書いてあるの?
リンデン 昨日の朝から何か變なことがあつたのね、何です? ノラさん。
ノラ (リンデン夫人の方へ行きながら)クリスチナさん――(聞耳を立てる)しつ! トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトが歸つて來た。さ、乳母の室へ行つてゝ頂戴、あの人は裁縫なんか見てることの出來ない人ですからね。それから、アンナに手傳はせて下さいな。
リンデン (手近の物を取り集めて)はい/\、ですけれども、すつかりお話を聞くまでは歸りませんよ。
[#ここから3字下げ]
(リンデン夫人は左手に出て行く、引きちがへにヘルマーが廊下から入つて來る)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ノラ (走りよつて迎へる)まあ、お歸りなさい。
ヘルマー 仕立屋が來てゐたのか?
ノラ いゝえ、クリスチナさんですよ、私の衣裳を手傳つてゐてくれるの、今に綺麗に出來上るから見ていらつしやい。
ヘルマー あゝ、俺のあの考へは、いゝ思ひつきだつたらう?
ノラ ほんとによかつたわ、けれども私があなたの考へに賛成したのも、えらいでせう?
ヘルマー (ノラの顎の下を捉へながら)えらい? 夫の考へに賛成したのが? まあ、よし/\、この氣まぐれ家、いや/\賛成したくせに。今こんな事をいつてお前の邪魔をしちやならない。お前はこれから着物を着て見るのだらう?
ノラ これから、あなたは仕事におかゝんなさるの?
ヘルマー あゝ(一たばの書類をノラにしめす)これをご覽(自分の室の方へ行く)今銀行へ行つて來たところだ。
ノラ あなた。
ヘルマー (立止りながら)えゝ?
ノラ あなたの栗鼠さんがね、大變可愛らしくて何か貴方にお願ひするといつたら――
ヘルマー ふむ?
ノラ 叶へて下さる?
ヘルマー まあどんなことだか聞かなくちやあ。
ノラ たゞ貴方が優しくしていふことを聞いてさへ下さればね。栗鼠はそこら中跳ねまはつてどんな藝當でもしますわ。
ヘルマー ぢやあ、いつてご覽。
ノラ あなたの雲雀は朝から晩まででも囀つてゐますわ――
ヘルマー いや、この雲雀は、いつでもよく囀るやうだよ。
ノラ 私、可愛らしい魔女になつて、月夜に踊つても見せますわ。ね、貴方。
ヘルマー ノラ――お前のいふのは、今朝遠廻しにいつてた、あのことぢやあるまいな。
ノラ (傍へよつてきて)あのことよ、ね、あなた、どうかお願ひですから。
ヘルマー お前は實際、またそれをいひ出す勇氣があるのかい?
ノラ えゝ、ですから私を助けると思つて、是非クログスタットを銀行に置いてやつて下さい。
ヘルマー でもお前、私がリンデンの奧さんをつけようと思ふのは、あいつの地位なんだよ。
ノラ えゝ、それは有難いんですけれどね、クログスタットの代りに誰か他の者を免職にして下さいな。
ヘルマー どうしたんだ、わからないにもほどがあるな。お前がよく考へもしないで、あんな奴に約束をするものだから、そのために私が――
ノラ さうぢやないのですよ、あなた。あなたのためなのです。あの男は幾つかの惡徳新聞に關係してるでせう、惡人のすることですもの何をほじくり出すか知れやしません。私たちはこれから睦じい穩かな家庭で幸福に暮らせるのでせう? 貴方も私も子供もね、ですから私お願ひなのよ、どうかね。
ヘルマー さういふ風にお前があいつの頼みを聞かうとするから、却つて益々あいつを置いとくことが出來なくなるのだ。私がクログスタットを出すといふ話は銀行へ知れてるのだから、萬一、新支配人は妻君の小指で引き廻はされたといふやうな噂がたつと――
ノラ さうすると、どうなります?
ヘルマー 仕樣があるものか、我儘女が剛情をいひ張つてる間は駄目だ、俺は人の物笑ひになつて嬶天下で頭が上らないといはれ
前へ 次へ
全15ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島村 抱月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング