それはまあいゝとするよ、何で私が惡徳記者の怨なんか恐れる必要があるか、けれども、それはそれとして、お前のいつたことは構はない、俺を非常に愛してくれる證據なのだから。(ノラを兩腕に取り)これで先づ片はついたといふものだ、な、ノラ。どうにだつてなるものはならせておくさ。時機が來れば必要に應じて力も出せば勇氣も出す。まあ見てお出で、俺の廣い肩でどんな重荷が來ても背負つて立つてやるから。
ノラ (恐怖に打たれて)あなた、それは何をおつしやるのです?
ヘルマー 重荷をすつかりといふんだ。
ノラ (決心して)あなたにそんなことは決してさせません。決して(ヘルマーを抱く)
ヘルマー よし/\。ぢやあ二人で分擔するさ、夫と妻とでねえ。(ノラを手で輕く叩きながら)それで得心が行つたかい、さあ、さあ、さあ、そんな顏をしないで。今いつたやうなことは何でもない、みんな空想だ。さあこれからタランテラをすつかり彈いてタンバリンの稽古をしなくちや。俺は書齋に引込んで、兩方の扉を閉めておくから何も聞える氣遣ひはない。幾らでも騷ぎたいだけ騷いでもいゝよ。(入口の所で振り向いて)それからランク君が見えたら書齋に來るやうにいつてくれ。(ノラに頷いてみせて書類を持つて自分の室に入り扉を閉める)
ノラ (恐怖に度を失つて地から生えたやうに突立つ、そして囁く)あの人は、やるに違ひない。どんなことがあつてもやるに違ひない。いけない、そればかしはどんなことがあつても、どんなことがあつてもさせやしない。そんなことをさせるくらゐならどんなことだつて出來る。あゝ、何とかそんなことにならない方法はないかしら、どうしたらいゝだらう? (廊下のベルが鳴る)ランク先生だ――そんなことをさせるくらゐなら何だつて出來ないことはない。何だつて何だつて。
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(ノラ、兩手で顏を撫でて氣を取り直し、扉の方へ行つて開ける。ランクは外に外套をかけながら立つてゐる。次の臺詞の間に段々暗くなる)
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ノラ 先生、今日は――ベルの鳴り具合で、あなたといふことがわかりますよ。けど、あなた、今はトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの方へいらしてはいけませんよ。忙しさうですから。
ランク あなたはお暇なのですか?
ノラ 私はもう、あなたのためなら、いつだつて時間を明けてるぢやありませんか。
ランク 有難う、ぢや、ご親切に甘えて出來るだけゆつくりして行きませう。
ノラ 出來るだけゆつくりですつて?
ランク はあ、それが氣に懸りますか。
ノラ 何だか變なおつしやりやうぢやありませんか。何か變つたことでもありさうですね。
ランク 前から仕度をして待つてゐたことが來さうです。たゞこんなに早く來ようとは思はなかつた。
ノラ (ランクの腕を取りながら)それはどんなことです? 先生、聞かして下さい。
ランク (ストーヴの傍に坐りながら)私は今、急な坂を馳け下りてるやうなものです。助けようといつたつて方法はありません。
ノラ (ホッと長い息を引く)あなたが――?
ランク 私でなくて誰のことをいふものですか――自分で自分を欺いてゐたつて仕樣がない。家へ來る患者の中で一番慘めなのは私ですよ、奧さん。私は久しい間自分の生命の計算をやつてましたが――たうとう破算です。一月經たないうちに私は墓場へ行つて腐らなくちやならない。
ノラ まあ! 何ていやなことをおつしやる。
ランク 事柄が全體情ない、嫌な事なんですからね。たゞ困つたことにはその外にまだまだ嫌なことを澤山通り越さなくちやなりません。それからもう一つ最後の研究が殘つてゐて、それが濟むと愈々破滅の始まる日限も決つてきます。それで一言あなたに申上げて置きたいが、ヘルマー君はあゝいふ神經質な人ですから、すべて恐ろしいものは避ける傾きを持つてゐます。だから、あの人を私の病室へは入れたくないものです。
ノラ ですけれど先生――
ランク いや、來ないやうにしなくちやいけません――どんなことがあつても、それだけはいけませんよ。來たつて戸を閉めて入れない、それで私がもういけないと決つたら、すぐ名刺の上に墨で十字架をかいて送りますから、その時には愈々恐ろしいことが始つたと思つて下さい。
ノラ まあ何てことを、あなた、今日はまるで駄々ッ子ですね、今日こそ愉快にして頂きたいの――
ランク 正面から死といふものに睨まれてゐてですか? そして他人の罪惡のために私が苦しまなくちやならない、そんな理窟に合はない話があるもんか。
ノラ (兩方の耳をふさぎながら)もう/\そんなことは止して下さい。さあ愉快になさいよ。
ランク あゝあ、要するに世のなかのことといふものはをかしなものだ。何も知らない私の背髓が親父の將校時代
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