父は署名なすつた時に日付を入れることをお忘れなすつた、それをお亡くなりの後まだそのことの知れない時に誰か勝手に日付を入れたのでせう。もつともそれだけなら一向惡いことぢやありません。大事なのは名前ですからな。名前の方は確かでせうな奧さん? 實際あなたのお父さんがご自分の手でちやんとこゝへ署名なすつたんでせうな?
ノラ (暫く默つてゐて、頭を後へそらせ、決然たる樣子で彼を見る)いゝえ、父の名を書いたのは私です。
クログスタット もし、奧さん、あなた危險なことをおつしやつてますぞ、よございますか。
ノラ 構はないでせう、お金はぢき拂ひますから。
クログスタット 尚一つ伺ひたいことがあります、なぜこの手形をご親父の方へお送りにならなかつたのですか?
ノラ それは、送るわけに行かなかつたからです、父は大病でせう? そこへ署名のことなどいつてやると、金の使ひ道も話さなくちやなりませんから、宅が病氣で命が危ないといふやうなことはとてもいつてやれなかつたのです。
クログスタット そんなら旅行をお止しなすつたらよかつたでせう。
ノラ どうしてそんなことが出來るものですか。その旅行一つで主人の命はどうにもなるといふ場合でしたもの。到底止めるわけには參らなかつたのです。
クログスタット で、あなたは私に對して詐欺をしてお出でになるとは氣がつかなかつたのですか?
ノラ まアそんなことは私何とも思はなかつたのですよ。貴方のことなんざ、まるで考へてゐませんでした。貴方は宅が大病であると知りながら殘酷な面倒なことばかしいつておよこしになるもんだから私我慢が仕切れなかつたのですよ。
クログスタット 奧さん、あなたは現にやつてお出でなさることがどんな事だかご存じないやうですね。私がかうやつて社會から投り出されたのも、あなたとおなじことをしたからですぜ。
ノラ まあ、この人は! 細君の命でも救ふために立派なことをしたやうな顏をして。
クログスタット 法律は動機の如何を問ひません。
ノラ それぢや、その法律は大間違ひの法律です。
クログスタット 間違つてゐようがゐまいが、この證書を裁判所にさへ持出せば、あなたは法律上の罪人にならなくてはなりませんよ。
ノラ そんなことがあるものですか、あなたのおつしやるやうだと、娘が大病の父に苦勞をさせまいとする權利はないわけですね――妻が夫の命を救ふ權利もないわけですね、私、法律のことはよく知らないけれど、きつと何處かに今いつたやうなことが許してあると思ひますわ。それを貴方はご存じないんだから――貴方のやうな法律家が! 貴方はきつと碌な法律家ぢやないんですね、クログスタットさん。
クログスタット さうかも知れません。けれどもかういふことになると――今起つてるやうな事件になると、私はよく知つてゐますよ。おわかりになりましたか? それぢやあ宜しい。それから先はご隨意になさい。たゞ申上げて置きたいのは、私がもう一度泥沼へ落ちるとなると、貴女もご一緒に來なくてはなりませんよ。(ちよつと腰を屈めて廊下から出て行く)
ノラ (暫く考へながら立つてゐて、そして頭を立てる)何でそんなことが! あいつ私を威かさうと思つてやがる。私、そんな間拔ぢやない! (子供の衣服を疊み始めるその手を止めて)けれど――いゝえ、そんなことのあらうはずはない。愛のためにしたんだもの――
子供 (左手の扉の處で)お母さん、よそのおぢさん、もう行つちまひましたよ。
ノラ えゝえ、知つてますよ。けれどね、よそのおぢさんの來たことを誰にもいつてはいけませんよ。わかりましたか、パパにだつていけませんよ。
子供 えゝ、だから一緒に遊びませうよ、ねえお母さん?
ノラ いゝえ、今はいけないの。
子供 ねえ、遊びませうよ。お母さん、約束したんですもの。
ノラ さうですけどね、今はいけませんよ。乳母《ばあや》のゐる方へいらつしやい。お母さんは澤山ご用があるから。さ、さ、いらつしやい。温和《おとな》しくしてゐるんですよ、よくつて? (子供達を靜かに向ふの室の方へ押しやり、あとの戸を閉め切る。ソファに坐り刺繍を取上げ、二針三針動かして直ぐ止める)そんなことがあるものか! (仕事のものを投出して立ち上り、廊下の扉の方へ行つて呼ぶ)エレン! クリスマス・ツリーを持つておいで! (左手のテーブルの處へ行つて抽出を開ける、またその手を止める)どうしてそんなこと、どう考へたつてそんなはずはない。
エレン (クリスマス・ツリーを持つて)何處へお立て申しませうか。
ノラ そこへ、部屋の眞中の處へ。
エレン 何かまだ他のものを持つて參りませうか。
ノラ いゝえ、よくてよ、それですつかり揃ひます。
[#ここから3字下げ]
(エレンは、木を置いて出て行く)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折
前へ 次へ
全37ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島村 抱月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング