ク先生がいらつしやいますからお通してもよろしいかと存じまして。
クログスタット (廊下への入口で)私です、奧さん。
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(エレン去る。リンデン立つて窓の方へ向ふ)
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ノラ (一足男の方へ行き、心配氣にやゝ聲高く)あなたですか? 何です、主人にどんなご用があるんですか?
クログスタット 銀行の用事――といつてもいゝでせうな。私はあの銀行でちよつとした仕事をしてゐますが、今度ご主人があすこの新支配人にお成りになると聞きましてね。
ノラ それで?
クログスタット ごく詰らない用事ですがね、奧さん、たゞそれだけですがね。
ノラ ぢやどうか書齋にゐますからお通り下さい。
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(クログスタット行く。ノラ無雜作に腰を屈め廊下への扉をしめる。そしてストーヴの傍により、火をおこす)
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リンデン ノラさん、誰方でした?
ノラ クログスタットさんといつて、もと辯護士をしてゐた人です。
リンデン ぢや、やつぱりさうだ。
ノラ あなたご存じ?
リンデン もと知つてました――よほど前のことです。私どもの町の辯護士の所にゐましたつけ。
ノラ えゝ、さうですつてね。
リンデン あの人も隨分變りましたわねえ。
ノラ たしか結婚をしてうまく行かなかつたんでせう?
リンデン ぢや、今は獨身?
ノラ 大勢の子供をつれてね。さあやつと燃えつきました。(ストーヴの戸を閉め、ロッキングチエアを少し側によせる)
リンデン あの人のやつてる仕事はあまり立派なことぢやあないつてますね。
ノラ さう、さうかも知れません。私知りませんわ。仕事の話なんか止しませうよ――面白くもないから。
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(ランクがヘルマーの室から出て來る)
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ランク (入口に立つたまゝ)なあに/\私にお構ひなく。私はちよつと奧さんの所へ行つてお喋りをして來るから(扉を閉ぢる、リンデン夫人のゐるのを見て)や、失禮、こつちでもお邪魔になりさうだな。
ノラ いゝえ、ちつとも(二人を紹介する)ランク先生――リンデンの奧さん。
ランク あさうですか。お名前は度々伺ひました。さつき此方へ上つて來る時階段でお先へ失禮したのが、たしかあなたでしたね。
リンデン はあ、私ゆつくり/\と歩くものですから。上り下りに骨が折れるので。
ランク あんまりお丈夫でない?
リンデン たゞ無理な仕事をしたせゐですけれど。
ランク あゝ、それで此方へ來て少し呑氣に保養をなさらうといふのですね。
リンデン いえ、此方へ參つたのは、職を求めたいと思ひまして。
ランク それぢやあ療養にはなりますまい、無理な仕事をなすつて疲れておいでなのに。
リンデン でも生きなくてはなりませんもの、先生。
ランク さやう、世間ではさういつてますね。
ノラ あら先生、あなただつて生きてゐたいとお思ひでせう?
ランク さうに違ひありません。私の生涯がどんなに慘めだらうが、やつぱり出來るだけは長く引つ張つてゐたい。私の所へ來る患者もみなさういふ熱病に罹つてゐます。道徳上の患者だつて同じことだ。今丁度ヘルマー君が話してゐる人物なども、その仲間の一人です。
リンデン (柔かに)まあ!
ノラ 誰のことですか?
ランク あのクログスタットといふ奴ですよ。奧さん、あなたは何もご存じないが――心のどん底まで腐つた奴です。所があんな奴までが口を開けば眞面目くさつて生きなくちやあなりませんからなんていつてましたよ。
ノラ さう? そしてトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトにどんな用事があるといつてました?
ランク 實は私、何も知らないのですがね、話の樣子ぢや何でも銀行の事務に關したことらしかつたですよ。
ノラ 私はちつとも、あいつが――あのクログスタットさんが銀行に關係してゐるといふことを知りませんでしたわ。
ランク 何か詰らない仕事をしてるのです(リンデン夫人の方へ)何ですか、あなた方の地方でも、わざ/\道徳上の傷物を嗅ぎ出してほぢくり廻す連中がありますか? そして、何か事件が見つかると、その男を良い地位に据ゑて置いて見張つてゐるに都合のいゝやうにする。そんな連中に限つて道徳的な人間は相手にしないのです。
リンデン えゝ、それはさうでせうけれど――さういふ病人にこそ、尚のこと醫者の必要があるのぢやないのでせうか。
ランク (肩を搖つて)それだ! その考へからして人間社會を病院にしてしまふのです。
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(ノラは自分獨りで何か考へ込んでゐたが、半ば押潰したやうに笑ひ出す)
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