とをあんなに嫌つてる人に、そんなことでもいつて御覽なさい。それにトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトのあの男らしい、獨立心の勝つた氣性で、幾らかでも私の世話になつてるといふことを聞いたら、どんなにか心苦しく、肩身が狹いでせう? それこそ私たち夫婦の仲を打ちこはしてしまひますわ。私どもの美しい幸福な家庭は二度と見られなくなりますわ。
リンデン ぢやあ一切話さないお積りですか?
ノラ (熟考の樣子で半ばほゝ笑みながら)さうですね、いつかは話すかも知れません――幾年かたつて、私がもう――あんまり美しくなくなつたら。あなた笑つちやいけませんよ。つまりね、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトが今のやうに私を愛してくれなくなつて、いくら私が跳ね廻つて、衣裳をつけたりお芝居をして見せたりしても、もう面白いと思はなくなつたら、その時取つて置きの材料があると都合がいゝでせう? (急に話を切り)あゝ、馬鹿々々しい! そんなことになつて堪るものか。それで、あなた、どう思つて? 私の大祕密を。やつぱり私には何も出來ませんか? これだけのことをするには、私、隨分苦心しましたよ。きちん/\と義務を果たして行かうと思へば、冗談ごとでは出來ません。貸借上のことでね、年賦拂といふのと年四季の利子勘定といふのとがあります。それを間違ひなくすませて行かうとすると實に骨ですよ。そのために手の屆く限り、そこら中から少しづつ掻き集めなくちやならず、それかといつてトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトにそんな非道い暮しもさせられませんから家の費用を剩すといふ譯にも行きませんしね、子供にだつてあまり非道い裝《なり》をさせて出したくもありませんから子供達に宛てた金はみんなそのために使つてしまひますし。
リンデン 骨が折れたでせうね、ノラさん。つまり皆なあなたのお小遣から出た事になるんですね。
ノラ さうなのです。つまり何もかも私獨りでやつたことになるでせう? 主人が着物を買へとか何とか云つてくれるお金を半分以上使つたことはつひぞありません。まあそれはいゝとして、その外にも私、別口でお金を拵へましたのよ。去年の暮大變好い都合でしてね、寫し物をどつさり頼まれました。けれどもあんな風に働いてお金を儲けた時は、いゝ氣持ですことねえ、まるで男になつたやうな氣持ですわ。
リンデン そんなにして今までにどのくらゐ借金しました。
ノラ さうね、正確にはわかりませんわ。そんなことといふものは、はつきりさせておくことのむづかしいものですからね、私たゞ丹念に集めて來ただけの金を、すつかり拂つて來たことは知つてゐます。時々は實際何處へすがつていゝかわからないこともありました(微笑して)その時には私、いつも此處に坐つて想像して見ますの、誰かお爺さんの金持があつて私を愛してくれて――
リンデン え、誰ですつて――
ノラ なあに誰でもないんですよ――そしてその人が死んぢやつて遺言状を開けてみると大きな字で「予が死する時所有せし一切の財産を直ちに彼の愛らしき人ノラ・ヘルマー夫人に讓渡すべし」と書いてある。
リンデン ですけど、ノラさん、あなた誰のことをいつてるのです?
ノラ おや/\、わからないのですか? 誰もお爺さんがゐるのぢやありません。たゞいつも私がお金の工面に盡きた時、獨りで想像して見る人なのですよ、だけど、もうそんなこともいらなくなりました――あの辛氣《しんき》くさい爺さん、私に用があるなら何處にでも待つてるがいゝや。私、そんな人に用もなければ遺言状にも用はない、私の心配ごとはもうすつかり無くなつたのですから(とび上りながら)ねえ、クリスチナさん、考へると、本當に大したことなのですよ。心配ごとがなくて自由の身になつて。自由です。すつかり自由なんです。これでもう子供と一緒にきやつきやつと騷ぎまはつてゐても差支へなし、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの好きなやうに家の中も綺麗に飾つたり、さうしてる中に春が來て、あの廣い青い空が見えて來ます。その頃にはちよつとした休みも取れるでせうし、も一度海も見られるでせう。ねえ、生きてゐられて幸福だといふことは何といふ素晴らしいことでせう。
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(廊下口のベルが鳴る)
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リンデン (立ち上りながら)ベルが鳴ります。私はお暇した方がいゝでせう。
ノラ いゝえ、まあいゝんですよ、來たのはきつとトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの客ですから。
エレン (入口の所で)奧さま、お客樣が見えまして旦那さまにお目にかゝりたいとおつしやいます。
ノラ 誰方? 支配人さんはとおつしやつたらう。
エレン はい、支配人さまと――でもあちらにはラン
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