つたでせう? そして遺産もなんにも無いのですか?
リンデン 何もありません。
ノラ お子さんは?
リンデン 子供もないんですよ。
ノラ まるつきり何も無いんですね?
リンデン 無いつたら、それこそ、心配の種も無ければこれから先どうといふ望み一つも殘つちやゐないんですよ。
ノラ (不思議さうにリンデンを見て)だつてクリスチナさん、まあどうしてそんなことが。
リンデン (微笑しながら髮の毛を撫でて)それはあなた、折々そんなことになるものですよ。
ノラ まるで一人ぼつち! どんなにか心細いでせうねえ。私は三人子供を持つてゐますが可愛んですよ。今乳母と外へ行つてゐますからお目にはかけられないけど。それはさうと、まああなたのお話をすつかり聞かせて下さい。
リンデン いえいえ、あなたこそ、どうぞ。
ノラ いけませんわ、あなたからお始めなさいよ。今日は私自分のことはお話したくないんですから。今日はあなたのことばかし考へてゐたいんですから。あ、さう/\、一つだけお話することがありますわ――だけど、もうお聞きになつたでせう、主人が大變な出世をしましたことを。
リンデン へえ、どうなさつたの。
ノラ まあどうでせう、主人が銀行の支配人になつたんですよ。
リンデン ご主人が? ほんとにお仕合せねえ。
ノラ えゝ、まあ、辯護士なんてものは、きまつた當のない職業ですからね。ちよつとでも暗いことのある仕事はすまいとなると尚のことさうですし、主人は勿論暗いことが大嫌ひで、私だつてその主義ですから、とてもやり切れませんわ。それで今度は私ども、どんなにか喜んだでせう? 新年からそつちへ行くことになつてるのですよ。給料もどつさり取れて配當もあるんですからねえ、これからは、すつかり今までと違つて見違へるやうな暮しができます――實際どんな暮しでも好きなことができるんですよ。あゝ私、本當に氣が浮き/\して幸福ですの。お金が澤山あつて心配ごとは少しもなし、申分ないでせう。
リンデン えゝ、いるだけのものが取れゝばね、幸福に相違ありません。
ノラ いるだけぢやありませんよ、お金が山ほど――山ほど取れるんですもの。
リンデン (微笑しながら)ノラさん、あなたはいまだにねんねえですのねえ。ご一緒に學校に行つてる頃から、大變お金を使ふことの好な方でしたつけが。
ノラ (靜かに微笑しながら)えゝ今でもさうですつて、トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトがいつてますのよ(指で突く眞似をしながら)けれどもね、この「ノラさん」は皆が考へてる程馬鹿ぢやあないんですよ。本當は私まだそれほど無駄使ひ家になれる身の上ぢやないんです。夫婦共稼ぎでしたもの。
リンデン あなたがですか?
ノラ えゝ、ちよつとした手細工仕事をよ、編物だの刺繍《ぬひとり》だの、まあそんなことをね(意味ありげに)それから、もつと外のこともしましたの、無論ご存じでせうがトル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトは結婚するとすぐ役所の方を引きました。というのは、あんまり出世の見込もなかつたし、お金は段々いつて來ますしね。それやこれやで結婚した當座一年といふもの、あの人が無理な仕事をしたんです。何でも構はないからといふので朝早くから晩くまで色んなことをしてたうとう病氣になつて倒れちまつたのです。それでお醫者は是非南ヨーロッパの方へ轉地しろといふんでせう。
リンデン えゝ/\、たしかイタリアに一年行つてらつしやつた?
ノラ 行つてましたの。ですけれど、それまでの算段が容易ぢやなかつたんですよ。丁度イ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールが生れたばかりでしてね、それかといつて止す譯にはいかないから、まあやりくりをして出かけたんですが、旅行はいゝ旅行でしたわ。トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルトの命もそのお蔭でとりとめますし、たゞクリスチナさん、かゝりが大變でしてねえ。
リンデン さうでせうとも。
ノラ 千二百ターレル、隨分かゝつたでせう?
リンデン そんなお金があつたのですから、結構ですわ。
ノラ それは私の父の手元から出たのです。
リンデン なるほどね、あなたのお父さんは、丁度あの時お亡くなりでしたね。
ノラ えゝ、さうですよ、それでどうでせう。私行つて看護することもできなかつたんですよ、イ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールの生れるのを今日か/\と待つてた時でしてね、そしてそれがすむと今度は主人があの病氣で私はその方へつきつきりでせう? 私をあんなに可愛がつてくれた父ですけれど、可愛さうにそれつ切り會へないで死んぢまひました。結婚してから一番辛かつたのは、あの時ですわ。
リンデン あなたは大變お父さん思ひでしたわね。で、それからイタリヤへいらつしやつたの?
ノラ えゝ、お金はできますし、お醫者は
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