れたのが、あなただといふことを、今日まで知らなかつたのですよ。
クログスタット ふむ、それぢやあ、その方はさうとしておいて、愈々それとわかつてみれば、どうです、私にそれを讓らうとおつしやるのでせうか?
リンデン いゝえ、そんなことはあなたを救ふ道ではないと思ひます。
クログスタット あゝ、その救ひです――私は是非ともさうして頂きたい。
リンデン ですけれども、私も冷靜にことを運べと教へられましたからね、世間とむごい辛い暮しとが私を教育したのですよ。
クログスタット それから、私には人の言葉を滅多に信用するなと世間が教へてくれました。
リンデン ぢや世間はあなたに本當のことを教へましたね。けれども實行すれば信用なさるでせう。
クログスタット といふと――?
リンデン お話によると、あなたは今難船して帆柱に縋りついていらつしやるのですね。
クログスタット さういへる理由が澤山あります。
リンデン さうすれば、私も難船して帆柱に縋つてゐる女でせう? 誰を愛するといふ當もなく。
クログスタット それは、あなたがすき好んでおやんなすつたことだ。
リンデン 好き嫌ひをいふ暇はなかつたのです。
クログスタット まあ、さうとして、それでどうするといふのです?
リンデン かうやつて難船した二人が手を握り合ふことが出來たら、どんなものでせう。
クログスタット 何ですと?
リンデン 一本々々の帆柱に縋りついてゐるよりか、それを組合せて筏にした方がいゝ譯でせう。
クログスタット クリスチナ!
リンデン 私がこの町へ來たのは、どういふ譯だと思つていらつしやるの?
クログスタット 何か私のことでも考へて來たのか?
リンデン 何よりも仕事をしなくてはなりますまい? 仕事をしなければ生きて行けませんからね、私の覺えてゐる限りでは、私は一生仕事のし通しですよ。仕事が私にとつては非常な樂しみになつてゐました、ところが、かうして唯一人になつてみますと、自分で自分を當に仕事をすると言ふことは、ちつとも幸福なものぢやありません。ですからねあなた、どうか當にして働く甲斐のある人を私に見付けて下さいな。そんな風にして仕事をさせて下さいな。
クログスタット いや、いや、それは駄目だ。たゞもう女が自分を犧牲にしようといふロマンチックな考へに過ぎないんだ。
リンデン あなたは私をロマンチックな女だと思つてらつしやつて
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