驍フが善いとか惡いとかいふ論爭がそれにともなふ。けれども要するにこの論爭は無用である。すべての劇が問題劇でなくてはならないといふ理由もなければ、一つの劇が問題劇であつてはならないといふ理由もない。劇が藝術としての目的は我々の生命を衝き動かすところにある。それさへあれば、その方法となり、材料となるものが社會問題であると否とは問ふところではない。『人形の家』には婦人問題が材料として用ひられてゐる。婦人の解放、婦人の獨立、婦人の自覺、男女對當の個人としての結婚、戀愛を基礎とした結婚、といふやうな問題が含まれてゐる。そのためこの劇が單なる藝術の力以外に廣く世界を刺戟したことは否まれない。ヱドマンド・ゴッス氏がその『イブセン傳』(Ibsen : Edmund Gosse)の中で、
『人形の家』はイブセンが始めての無條件的成功の作である。ただに世間一般の議論を惹き起した最初の作であるのみならず、その仕組及び描寫法において、イブセンが撓まざる現實的作家としての新理想を發揮した點で、その以前の作よりも遙かに進んでゐる。アーサー・シモンズ(Arthur Symons)君が「人形の家はイブセンの劇中傀儡を
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